山崎藩(読み)やまさきはん

藩名・旧国名がわかる事典 「山崎藩」の解説

やまさきはん【山崎藩】

江戸時代播磨(はりま)国宍粟(しそう)郡山崎(現、兵庫県宍粟市山崎町)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は思斉館(しせいかん)。1615年(元和(げんな)1)、姫路藩池田輝政(てるまさ)の4男輝澄(てるずみ)が3万8000石を分与され、山崎に陣屋を設けて立藩。31年(寛永(かんえい)8)に3万石加増されるが、40年に御家騒動により、因幡(いなば)国鹿野(しかの)1万石に減転封(げんてんぽう)された。その後は譜代の松平松井)氏、池田氏を経て、79年(延宝(えんぽう)7)に大和(やまと)国郡山(こおりやま)藩から本多忠英(ほんだただひで)が1万石で入封、以後明治維新まで本多氏が9代続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で山崎県となり、その後、姫路県、飾磨(しかま)県を経て、76年兵庫県に編入された。◇宍粟藩ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山崎藩」の意味・わかりやすい解説

山崎藩
やまざきはん

播磨(はりま)国(兵庫県)宍粟(しそう)郡を領有した藩。宍粟藩ともいう。1615年(元和1)姫路藩主池田輝政(てるまさ)の四男輝澄(てるずみ)が大坂の陣の直後、宍粟郡に3万8000石を受け、領内の山崎に陣屋を設けた。1631年(寛永8)、弟の赤穂(あこう)藩主政綱(まさつな)が没し、さらにその弟佐用(さよ)藩主輝興(てるおき)が赤穂に転ずるや、その旧領のうち佐用郡3万石を加えたが、40年御家騒動により因幡(いなば)国(鳥取県)鹿野(しかの)1万石に減封された。かわって松平(松井)氏、池田氏と移り、1679年(延宝7)大和郡山(やまとこおりやま)から本多忠英(ほんだただひで)が入部、1万石を領して明治に至る。1871年(明治4)廃藩、山崎県、姫路県、飾磨(しかま)県を経て76年兵庫県に編入された。

小林 茂]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山崎藩」の意味・わかりやすい解説

山崎藩
やまざきはん

宍粟 (しそう) 藩ともいう。江戸時代,播磨国 (兵庫県) 宍粟地方を領有した藩。元和1 (1615) 年姫路藩主池田輝政の子輝澄が支藩3万 8000石で立藩 (のち6万 8000石) 。池田氏が除封され,因幡 (鳥取県) 鹿野に再封後,松平 (松井) 氏6万石,池田氏3万石を経て,延宝7 (79) 年に本多氏が1万石で入封し,山崎藩と改称,以後廃藩置県にいたった。本多氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「山崎藩」の解説

山崎藩

播磨国、山崎(現:兵庫県宍粟市)を本拠地とした藩。播磨一国を領有した池田輝政の4男輝澄(てるずみ)が山崎に陣屋を設けて立藩。

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