本多氏(読み)ほんだうじ

改訂新版 世界大百科事典 「本多氏」の意味・わかりやすい解説

本多氏 (ほんだうじ)

西三河の国人領主。一族をあげて松平氏=徳川氏の被官となり,近世には酒井,井伊,榊原氏とともに徳川将軍家の最高の門閥譜代層を形成した。本多氏は太政大臣藤原兼光の子の左大臣顕光より11代目の後裔右馬充助秀が豊後国本多に住してから本多を称し,12代助定は足利尊氏に仕え,尾張国横根,粟飯原の両郷を領したという。13代助政には定通と定正の2子があった。これより本多氏は定通系と定正系の2系統に分かれる。定通系4代助時は松平宗家2代泰親,3代信光に仕え,定正系4代秀清は松平宗家5代長親に仕えたと伝えられる。いずれも家伝であり,どの程度信憑性があるか疑問ではあるが,戦国期には定通系に定忠家,正助家,信正家の3家,定正系に正吉家,定吉家の2家,計5家に分立していたことを,家譜の上から確認できる。いずれも,おそくとも家康の祖父清康の代,またはそれ以前から松平宗家に仕えていたと主張しており,最も古くからの松平宗家譜代家臣団とみてよいだろう。戦国期の松平宗家譜代家臣団の一翼を構成した本多氏5家は,江戸時代になると譜代大名上層に位置し,また大名と旗本を分出した。その中で最も著名なのが,定通系から出た本多忠勝と,定正系の本多正信本多正純父子である。前者は家康の武将型臣僚の代表であり,後者は帷幕謀臣,吏僚型臣僚の第一人者であった。しかし1622年(元和8)正純が改易された後は,幕政の面で指導的役割を果たした者は出なかった。本多氏が最も大きな役割を果たしたのは,戦国期から江戸幕府創業期であったと言えよう。大名として明治に至ったものには,定忠家に岡崎藩山崎藩,泉藩,正助家に膳所(ぜぜ)藩,神戸(かんべ)藩,西端藩,正吉家に飯山藩,定吉家に長尾藩の8家があり,ともに維新後子爵。また重次の甥富正,正純の弟政重の家はそれぞれ福井藩,加賀藩の家老として明治に至り男爵
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本多氏」の意味・わかりやすい解説

本多氏
ほんだうじ

江戸時代、徳川氏に仕えた譜代大名(ふだいだいみょう)。一族は大名、旗本50余家に分かれ繁栄した。家伝によれば、先祖は太政大臣(だいじょうだいじん)藤原兼通(ふじわらのかねみち)の子顕光(あきみつ)とし、11代助秀(すけひで)が豊後国(ぶんごのくに)(大分県)本多に住したので本多を名字とし、12代助定(すけさだ)は足利尊氏(あしかがたかうじ)に従い、恩賞として尾張国(おわりのくに)(愛知県)に所領を与えられた。そして13代助政(すけまさ)の子定通(さだみち)、定正(さだまさ)から2系統に分かれた、としているが、系譜は明確ではない。定通系本多氏は松平氏二祖泰親(やすちか)代から松平氏に歴任した。家康代に活躍し徳川四天王の一人に数えられる平八郎忠勝(ただかつ)はこの宗家の出である。この家は15万石を領し、伊勢(いせ)(三重県)桑名(くわな)、播磨(はりま)(兵庫県)姫路などを転じ、5万石となり、三河(愛知県)岡崎で廃藩を迎えた。別家には陸奥(むつ)(福島県)泉(いずみ)などの大名家があり、泉本多家の忠籌(ただかず)は松平定信(さだのぶ)の協力者として著名である。近江(おうみ)(滋賀県)膳所(ぜぜ)、伊勢(いせ)神戸(かんべ)の本多氏もこの系統とみられている。ここには家康に仕え三河三奉行(さんぶぎょう)の一人と称される重次(しげつぐ)が出ている。定正系本多氏はさらに2系統に分かれ、その一つは家康に仕えて活躍した豊後守広孝(ぶんごのかみひろたか)の系統であり、その子孫は信濃(しなの)(長野県)飯山(いいやま)で廃藩を迎えている。他の一つは家康に近侍した佐渡守(さどのかみ)正信(まさのぶ)の系統で、家康の祖父清康(きよやす)以来松平氏に仕え、家康と正信との関係は水魚のごときだったと称されている。その子正純(まさずみ)も家康側近として権力があったが、秀忠(ひでただ)代に改易となった。この系統には、5代綱吉(つなよし)代に老中に登用された正永(まさなが)(上野(こうずけ)沼田藩主)が出ている。

[林 亮勝]

『中村孝也著『家康の臣僚 武将編』(1968・人物往来社)』


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百科事典マイペディア 「本多氏」の意味・わかりやすい解説

本多氏【ほんだうじ】

西三河の国人。古くからの松平宗家譜代家臣団で,一族をあげて松平=徳川氏被官となり,徳川将軍家最高の門閥譜代層を形成。大名として明治に至ったものに三河(みかわ)岡崎藩・西端(にしばた)藩,播磨(はりま)山崎藩,陸奥(むつ)泉藩,近江膳所(ぜぜ)藩,伊勢神戸(かんべ)藩,信濃(しなの)飯山藩,安房(あわ)長尾藩の各藩主家がある。
→関連項目岡崎城

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本多氏」の意味・わかりやすい解説

本多氏
ほんだうじ

本姓は藤原。兼通の子孫秀豊のとき,豊後国本多に住し,以来本多氏を称したという。南北朝時代に尾張国に移住し,室町~戦国時代には尾張,三河両国にまたがる土豪として多くの一族をもった。徳川氏に仕え,江戸時代には幕府の重臣として活躍する者を出した。その一族も栄え,大名 13家,旗本 45家を数えた。三河岡崎,播磨山崎,近江膳所 (ぜぜ) ,安房長尾などの本多氏は,明治になって子爵。

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世界大百科事典(旧版)内の本多氏の言及

【岡崎藩】より

…康福はわずか8年余の在城で石見浜田へ移され,この地の本多忠粛(ただとし)が入封し,忠典(ただつね),忠顕,忠考(ただなか),忠民(ただもと),忠直とつづいて明治維新をむかえた。この本多氏の治政を藩政成立期の本多氏と区別して後本多の時代というが,入封当初から財政困窮に苦しみ,所替を幕府に願ったが許されず,寛政期には借財が30万両をこえた。そこで家老中根隼人らが中心になって江戸商人三谷に協力を求め,財政の改革を試みた。…

【府中】より

…1575年(天正3)府中三人衆の一人前田利家が居城。1601年(慶長6)結城秀康が3万6000石で付家老本多富正を配して以来,本多氏の城下町として発展した。南端の亀屋町から北府(きたご)町へ北陸街道が北上し,街道に沿って町屋を置き,東方に侍屋敷が広がり,その中央に御茶屋と呼ばれた本多氏の居館があり,西方には寺を配した。…

※「本多氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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