日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本理顕」の意味・わかりやすい解説
山本理顕
やまもとりけん
(1945― )
建築家。中国北京(ペキン)生まれ。本名、理顕(みちあき)。1968年(昭和43)、日本大学理工学部建築学科卒業。1971年、東京芸術大学大学院美術研究科建築専攻修了後、東京大学生産技術研究所原広司研究室に研究生として所属。1973年、山本理顕設計工場設立。雑居ビルの上の住居GAZEBO(1986、神奈川県)、公立はこだて未来大学(2000。構造家木村俊彦(1926―2009)と共同設計)で日本建築学会賞を二度受賞しているほか、1998年(平成10)毎日芸術賞、埼玉県立大学(1999)で日本芸術院賞を受賞。
山本はつねに、住宅とは何か、居住とは何か、集住とは何かという命題に基づいて住宅と集合住宅を設計しつづけている。それは山本が原研究室時代に行った、アフリカをはじめとする民家、集落調査の経験に基づいている。すなわち、バナキュラー(土着的)な集落の住居平面の類型から、現代都市における集合住居の平面計画とコミュニティの根拠を探ろうとするものである。
建築家としての山本は、はじめ小規模な個人住宅の設計を行い、そこで個室の集合と家族内のコミュニティを理論的に計画配置することを行った。中庭や壁のない屋根だけの吹き放ちの空間、デッキなどの建築要素をそこに用い、外とも内ともいえない曖昧(あいまい)な空間を連続させることで、従来からの近代的な住居の平面計画を克服することを目指したのである。
複数世代の住宅、さらには公営住宅を設計する機会において山本は、ボールト型(アーチ状)の屋根といったエレメントを用いる。ボールト屋根の連続は一般的な屋根型と違って、住居の集合に独特のアイデンティティを与えることになる。熊本県営保田窪(ほたくぼ)第一団地(1991)ではこのような住居ユニットに囲まれた専用中庭を設け、いままでの公営住宅のつくられ方に一石を投じる。その後緑園都市(1992~1994、神奈川県)をはさみ、東雲(しののめ)キャナルコート(1999~2003、東京都)で大規模な団地をまとめる機会を得て、現代都市型の家族ユニット、すなわちかならずしも核家族を前提としない都市居住者を想定した集合住宅を提案する。
一方、山本は岩出山中学校(1996、宮城県)、埼玉県立大学、公立はこだて未来大学など教育施設の計画においても、独特の集合、配置計画を提案し、実現させた。いずれも従来のヒエラルヒー型の配置計画ではなく、分散型で全体がやわらかく統合される配置をもつ。そのような配置が教育プログラム、施設運営にも影響を与えることを意図している。山本の提案は、建築が完成して数年を経て、利用者による新たなインタラクション(利用形態)の発見があってはじめて完成するのである。
そのほかの作品に、広島西消防署、横浜市営住宅三ツ境(みつざかい)ハイツ(いずれも2000)、東京ウェルズテクニカルセンター(2001)などがある。
[鈴木 明]
『『細胞都市』(1993・INAX出版)』▽『『住居論』(1993・住まいの図書館出版局)』▽『原広司・山本理顕ほか著『建築――あすへの予感――離陸への準備』(1986・彰国社)』▽『土井鷹雄ほか編、山本理顕ほか著『現代建築/空間と方法23――記憶の様式 藤井邸・小俣邸・GAZEBO』(1986・同朋舎出版)』▽『『PLOT 山本理顕』(2001・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』