日本大百科全書(ニッポニカ) 「原広司」の意味・わかりやすい解説
原広司
はらひろし
(1936― )
建築家。神奈川県生まれ。1959年(昭和34)、東京大学工学部建築学科卒業。1964年東京大学数物系大学院建築学専攻博士課程修了。同年、東洋大学工学部建築学科助教授。1967年には当時の社会状況を踏まえつつ、緻密な理論体系によって建築の可能性を追究した著書『建築に何が可能か』を出版し、建築界にとどまらず、広く注目を集める。ここでは、「閉じた空間に孔(あな)をあける」という視点から建築を構想する「有孔体(ゆうこうたい)の理論」が詳細な形で展開された。この「有孔体の理論」を具体化した作品としては、原の実質的な処女作となる伊藤邸(1967)や慶松(けいしょう)幼稚園(1968、東京都)などがあげられる。1969年、東京大学生産技術研究所助教授。1970年以降、アトリエ・ファイ建築研究所との協同による設計活動を開始。活動初期の1970年代には、都市的な複雑さを住居の内部に持ち込み、それらの要素が互いに呼応し合うような、「反射性住居」として知られる一連の住宅設計を行っている。「反射性住居」の代表作としては、粟津邸(1972)、自邸(1974)などがある。また、1970年代にはヨーロッパ、アフリカ、中南米をはじめとする世界四十数か国の集落調査を行い、その体験と研究を踏まえて都市・建築に関する独自の思考を展開した。原は伝統的集落の実測調査を通して、個別的なリージョナリズム(地域主義)のなかから普遍的なインターナショナリズムを抽出する知のあり方を模索する一方で、数理解析を応用した新しい建築計画学の方法論を探究した。
1982年、東京大学生産技術研究所教授。この時期の作品には田崎美術館(1986、長野県。日本建築学会賞)、ヤマトインターナショナル(1986、東京都。村野藤吾賞)、那覇市城西小学校(1987)などがある。この頃には、「有孔体の理論」をさらに発展させた「多層構造」という概念を創案し、異なる次元の重ね合わせによる、多義的な状態の現出が模索された。こうした試行は、グラーツ・ミネアポリスの展覧会(1985~1986)における「多層構造モデル」としてまとめられている。また、ヤマトインターナショナルは、その多層構造モデルを具体的な建築へと結実させた成果の一つである。この「多層構造モデル」をもとに、原はやがて「様相」という独自の概念を生み出すに至る。原によれば「様相」とは、近代建築を牽引しつづけてきた「機能」に対置される新しい概念である。また、それは曖昧(あいまい)なもの、多義的なもの、不定形なものを包含する概念である。原はこのように、言葉の彫琢(ちょうたく)による論理の追究と、建築を通した方法論の探究をつき合わせながら、その両者の緊密な連関によって思考を繰り広げてきた。その集大成となる著書が『空間〈機能から様相へ〉』(1987)であり、これによってサントリー学芸賞を受賞している。
1980年代以降になると、都市をテーマとした海外のコンペティションにも積極的に参加しはじめ、ドイツのケルンにおけるメディアパーク都市計画構想(1988。最優秀賞)や、カナダにおけるモントリオール国際都市設計競技(1990。最優秀賞)など、数多くの成果を挙げた。こうした具体的な都市計画の提案と同時に、一方では「500M×500M×500M」(1992)というプロジェクトを通してコンパクトな都市モデルの追究も行っている。これらの活動と思考は、1990年代に入って都市的なスケールをもった建築にも延長され、やがて新梅田シティ(1993、大阪府)、JR京都駅(1997)、札幌ドーム(2002)といった大規模な作品として具体化した。さらに、そうした思考は宇宙にまで延長され、地球外における建築の可能性を検討した、地球外建築(1992)というプロジェクトとしてまとめられている。
原はまた、優れた教育者でもあり、原スクールと呼ばれる研究室からは、山本理顕(りけん)、竹山聖(きよし)、隈(くま)研吾、小嶋一浩(かずひろ)(1958―2016)をはじめとして、数多くの建築家や研究者が育っている。1997年(平成9)、東京大学を退官。同年、東京大学名誉教授。
[南 泰裕]
『『建築に何が可能か』(1967・学芸書林)』▽『『空間〈機能から様相へ〉』(1987・岩波書店)』▽『『住居に都市を埋蔵する――ことばの発見』(1990・住まいの図書館出版局)』▽『『集落の教え100』(1998・彰国社)』▽『『集落への旅』(岩波新書)』▽『東京大学生産技術研究所原研究室編『住居集合論』1~5(1973~1979・鹿島出版会)』