日本大百科全書(ニッポニカ) 「山沢栄子」の意味・わかりやすい解説
山沢栄子
やまざわえいこ
(1899―1995)
写真家。大阪生まれ。本名は栄。1918年(大正7)私立女子美術学校(現女子美術大学)日本画科選科卒業。以後、洋画と写真に取り組む。このころ、女性解放運動に尽力した平塚らいてうが主宰する『青鞜』の集会にも参加。こうした運動への関心は女性として自立するための意識の素地を築いたと考えられる。美術学校卒業後英語を学ぶため大阪YWCAに通うようになり、同会2代目総幹事であった浅井治子(はるこ)から人生の指針につながる多くの教示を得ることになる。26年に渡米し、カリフォルニア州立大学分校カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツで絵画を学びながら写真家コンソエロ・カネガConsnelo Kanega(1894―1978)の助手となる。彼女との出会いが、山沢に以後本格的に写真家を目指す決意をするうえでの決定的な影響力を与えることとなった。
28年(昭和3)にイギリス、フランスを旅して西洋美術に触れた後アメリカに戻り、カネガおよびハンガリー人写真家ニコラス・ムレイに師事し、ニューヨークにあるムレイのファッション・スタジオでポートレートの撮影に従事する。このころ習得した、人物の内面性をとらえようとする姿勢やライティングの技法は、抽象へと移行する後の表現に生かされることになる。繁栄のアメリカで貪欲に技術を習得し見聞を広めた山沢は、29年帰国。帰国後すぐにアメリカで撮影した都市の風景写真を第3回国際写真サロンに出品し入選する。
31年大阪の堂島ビル3階に写真スタジオを開設。菊池寛、横光利一(よこみつりいち)、長谷川如是閑(にょぜかん)、佐藤春夫、陶芸家富本憲吉ら当時の著名人や文化人、財界人のポートレートを多く手がけ、32年には個展「文化人・ポートレイト」展(大阪朝日会館)を開催する。35年には大阪そごう百貨店の開店にともない店内にスタジオを開き、3年後に大阪市南区周防(すおう)町に山沢栄子写真場を構えた。アシスタントも女性のみの写真スタジオは、ほかにはない撮影スタイルのモダンさが評判をよんでいたという。45年知遇を得た女優山本安英(やすえ)とともに戦禍を避け信州に疎開し、疎開先で山本の舞台衣装による写真撮影に取り組み、この記録は後に『山本安英舞台写真集』(1960)としてまとめられた。
第二次世界大戦後は大阪三越百貨店写真撮影部や、スモカ美術研究所に所属し、50年(昭和25)後進の指導のため大阪・浜地病院別館内に山沢栄子写真研究所を設立。52年には大阪そごう百貨店屋上に山沢商業写真スタジオを開設。翌年には写真集『探求』を刊行した。未だ広告に写真表現がなじみのないこの時期にあって、山沢が積極的に広告写真に取り組もうとした時期であった。55年大阪府芸術賞受賞。
山沢の写真表現を代表することになる抽象表現の写真を手がけるようになるのは1952年から53年ころにかけてのことである。60年には写実的表現と決別し、本格的に抽象の世界へと踏み込むようになった。同年出版された写真集『私の現代』冒頭に「写実による表現は、あとかたもなく過ぎ去ってしまった」と記されているように、以後、アブストラクト作品を制作するようになる。山沢の斬新な色彩感覚と構成力に支えられた、原色の幾何学的オブジェを撮影した作品を多く制作する。これらの作品は、特に80年代において多くつくられたオブジェによる構成的作品、いわゆるコンストラクティッド・フォトの先駆者として位置づけられることになる。
山沢は女性の写真家の少ない時代にあって旺盛な活動を展開し、79年から86年にかけては「私の現代」と題する個展を毎年開催して、常に新しい表現に挑みつづけた。晩年は抽象的造形によるペーパー・コラージュ作品を制作し、生涯制作への情熱が衰えることはなかった。享年96歳。
[神保京子]
『『遠近』(1962・未来社)』▽『『アブストラクト「私の現代」』(1976・山沢写真研究所)』▽『『私の現代』(1982・山沢栄子写真集刊行会)』▽『『私は女流写真家――山沢栄子の芸術と自立』(1983・ブレーンセンター)』▽『木下順二・岡倉士朗編『山本安英舞台写真集 資料篇・写真篇』(1960・未来社)』▽『「山沢栄子展」(カタログ。1994・伊丹市立美術館)』