女流文芸雑誌。六巻52冊。生田長江(いくたちょうこう)の勧めで平塚らいてうにより1911年(明治44)9月創刊、16年(大正5)2月廃刊。青鞜社発行。発起人はらいてうのほか保持研子(やすもちよしこ)、中野初子、物集(もずめ)和子、木内錠子(ていこ)。誌名は、18世紀なかばイギリスのサロンで女権を唱えた女性たちがblue stockingとよばれたのにちなんで長江が命名。表紙は長沼(高村)智恵子(ちえこ)による。わが国初の女性雑誌として発足し、与謝野晶子(よさのあきこ)、長谷川時雨(はせがわしぐれ)、森しげ等、文壇知名婦人を賛助員とし、岩野清子、茅野雅子(ちのまさこ)、尾島菊子、加藤みどり、田村俊子(としこ)、野上八重子(弥生子(やえこ))、水野仙子ら多数の社員を集めた。「一人称にてのみもの書かばや/われは女(おなご)ぞ」の与謝野晶子の巻頭詩、「元始女性は太陽であつた」と始まるらいてうの創刊の辞を掲げた1巻1号は、社則第1条に「女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす」と記した。前年創刊された『白樺(しらかば)』の影響が濃いが、岡本かの子、瀬沼夏葉(せぬまかよう)、伊藤野枝(のえ)、神近市子(かみちかいちこ)、山田わか等、社員は増え続けた。しかし、女流文学を生み出すにはいまだ熟さない時代だった。相次ぐ発禁処分、尾竹紅吉(べによし)ら一部社員による遊廓(ゆうかく)見学、飲酒が吉原登楼事件、五色の酒事件などとして扱われ、新しい女に対する批判嘲笑(ちょうしょう)が高まるなかで女性問題に関心が集まり、婦人解放運動の一拠点とさえなっていく。1915年1月からは伊藤野枝がらいてうから編集を引き継ぎ、社員制から個人主宰とし、婦人の自立、貞操、堕胎、公娼(こうしょう)問題などが次々に提起される。出産のため帰郷した野枝にかわって一時生田花世が編集するが、上京後野枝が大杉栄のもとに走るなどの恋愛事件、神近市子の大杉刺傷事件のなかで廃刊となる。復刻版(1980・不二出版)がある。
[尾形明子]
『『元始、女性は太陽であった――平塚らいてう自伝』上下(1971・大月書店)』▽『井手文子著『青鞜』(1961・弘文堂)』
日本で最初の女流文芸同人誌で,誌名はイギリスの〈ブルーストッキング〉にちなむ。平塚らいてうと日本女子大同窓生らを発起人とし,与謝野晶子,長谷川時雨(しぐれ),野上弥生子,田村俊子ら女流作家を加えた女性のみ30名の青鞜社の同人誌として,1911年(明治44)9月に発刊。月刊誌。小説,短歌,翻訳などが主だが,社則に〈女流文学の発達を計り他日女流の天才を産む〉ことを目的とすると述べ,また創刊号に女性解放のシンボルともいうべき〈元始女性は太陽であった〉という平塚らいてうの文を載せた。反響は大きく,翌年神近市子,尾竹一枝,伊藤野枝らが参加,発行部数1000を約3倍に増した。女性の自我の覚醒と解放を求めたこれらの人々は〈青鞜派〉と呼ばれるようになった。13年社員の自由な行動が新聞にたたかれ,〈新しい女〉として世間の注目をあびると,3ヵ月にわたり婦人問題を特集し,岩野泡鳴,阿部次郎,福田英子ら外部からの批評と社員の女性論,エレン・ケイの紹介などを載せ,また講演会を開催して婦人解放を模索した。14年,らいてうが自由恋愛による愛の共同生活を開始し,〈独立するに就て両親に〉を書き,新しい女の勇気を示した。この年,外部の非難に対して反撃文を書きつづけたのが伊藤野枝で,15年1月から主宰者は野枝にうつり,貞操問題,堕胎問題,売娼制度など女性をめぐる社会問題を扱い,原田皐月(さつき),山田わか,山川菊栄らが誌上で論争を行った。野枝がアナキスト大杉栄のもとに走った16年2月に廃刊となった。文学史的には,自然主義の封建的桎梏(しつこく)への批判と白樺派の自我尊重の理想主義のあとをうけて生まれたものである。
執筆者:井手 文子
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明治後期に創刊した日本最初の女性だけの文芸思想誌。1911年(明治44)9月創刊。平塚らいてう・保持(やすもち)研子・物集(もずめ)和子ら5人を発起人とし,与謝野晶子(あきこ)・長谷川時雨(しぐれ)・田村俊子らを賛助員として結成された青鞜社の同人誌で,はじめは「女流文学の発達を計り,各自天賦の特性を発揮」することを目的とした。平塚らいてうの創刊の辞「元始,女性は太陽であった」,与謝野晶子の「山の動く日来る」で始まる巻頭詩,長沼(高村)智恵子による女性の全身像で飾られた表紙は,女性の覚醒と解放を象徴するものであった。創刊号は25銭で部数は1000部。反響は大きく,翌年神近(かみちか)市子・伊藤野枝(のえ)・尾竹紅吉(こうきち)(富本一枝)が参加し,部数も約3倍となる。13年(大正2)に青鞜の女性たちの行動が「新しい女」として批判されたため,その目的を婦人問題の追求におく。以後誌上では堕胎・貞操・売娼・恋愛・結婚・母性について社会制度や既成道徳への挑戦も含む論争が行われ,発禁処分もうけた。15年1月から伊藤野枝が編集にあたるが,翌年2月に無期休刊となる。
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…与謝野晶子,平塚らいてう,伊藤野枝,神近市子らは,家族制度に抵抗して恋愛の自由を主張し,実践した。また1911年,平塚らいてうは雑誌《青鞜》を発刊し,女性の埋もれた才能の発見を訴え,自我の確立を説いた。このような状況のなかで,女性の問題は注目されるようになり,女性運動家たちの間では,母性保護論争など女性解放をめぐる諸問題が論じられた。…
…08年作家森田草平と塩原心中未遂事件(煤煙事件)を起こし世人を驚愕させた。11年生田長江にすすめられ,母から資金を出してもらい,婦人文芸集団青鞜社を興し,同人誌《青鞜》を発刊以後,編集と経営にあたる。創刊号に女権宣言〈元始,女性は太陽であった〉を書く。…
…いずれにせよ18世紀以降は,文学や芸術に興味をいだくインテリ女性に対して冷やかし半分に与えられる呼称として定着した。日本では〈青鞜派〉と訳され,平塚らいてうらは自分たちの機関誌を《青鞜》と名づけることによって,むしろ女性の知的独立宣言という,肯定的な意味合いを強調している。【川崎 寿彦】。…
※「青鞜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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