長谷川如是閑(読み)はせがわにょぜかん

精選版 日本国語大辞典 「長谷川如是閑」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐にょぜかん【長谷川如是閑】

新聞記者、文明評論家本名万次郎。東京出身。東京法学院卒業後、「日本新聞」「日本及日本人」を経て大阪朝日新聞により、小説評論紀行を発表。民主主義的言論をもって論陣をはるが、大正七年(一九一八)筆禍事件に際し引責退社。翌八年、大山郁夫、河上肇らと雑誌我等」を創刊主宰した。芸術院会員。昭和二三年(一九四八)文化勲章受章。著「現代国家批判」「日本ファシズム批判」「ある心の自叙伝」など。明治八~昭和四四年(一八七五‐一九六九

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デジタル大辞泉 「長谷川如是閑」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐にょぜかん〔はせがは‐〕【長谷川如是閑】

[1875~1969]ジャーナリスト思想家。東京の生まれ。本名、万次郎。新聞記者を経て、大山郁夫らと雑誌「我等」を創刊し、自由主義批評家としてデモクラシー思想鼓吹文化勲章受章。著「現代国家批判」「日本的性格」「ある心の自叙伝」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川如是閑」の意味・わかりやすい解説

長谷川如是閑
はせがわにょぜかん
(1875―1969)

明治・大正・昭和三代を生きた日本の代表的ジャーナリスト、思想家。明治8年東京に生まれる。本名山本萬次郎。9歳のとき曽(そう)祖母の養子となり長谷川姓を名のる。1907年(明治40)から「如是閑叟(にょぜかんそう)」と号した。如是閑の思想的立場は、ひと口でいえばイギリス流の自由主義者(リベラリスト)、それも19世紀中葉以降の社会主義の思想をも許容している点に特色がある。如是閑は深川木場の材木商の子として生まれ、幼年時代は浅草で育っている。したがって彼の血管のなかには、現実主義、合理主義、庶民感覚、ユーモアなどを重んじるイギリス思想と相似(あいに)た職人気質(かたぎ)が脈々と流れている。また彼は小学生時代に、イギリス思想を日本に紹介した坪内逍遙(しょうよう)や中村敬宇の塾で学び、長じては英米仏系の学校たとえば明治法律学校(現、明治大学)、東京英語学校(現、日本学園)などに通い、英吉利(イギリス)法律学校の後身東京法学院(現、中央大学)を卒業している。

 こうした思想形成が、日本の主体性を重んじつつも自由国民主義の立場を主張した陸羯南(くがかつなん)の『日本』新聞へ入社(1903)する動機となったものと思われる。その後、1908年には『大阪朝日』に入社、1916年(大正5)には社会部長となり、大正デモクラシー運動のなかで重要な役割を果たす。しかし1918年、「白虹(はっこう)筆禍事件」の責任をとり鳥居素川(そせん)、大山郁夫(いくお)、丸山幹治(かんじ)らと退社。1919年、大山らと雑誌『我等(われら)』を創刊、1934年(昭和9)に『批判』(1930年に『我等』を改題)を廃刊するまでの約15年間、国家主義やファシズムに抵抗する啓蒙(けいもう)活動を展開した。主著に『現代国家批判』(1921)、『現代社会批判』(1922)、『日本ファシズム批判』(1932)がある。『批判』廃刊後は、自由主義の宣伝啓蒙に努め、また『古事記』『万葉集』、本居宣長(もとおりのりなが)などの研究を通じて、当時の軍国主義・皇道精神の高揚に対して、日本人は古来から平和愛好的な民族であったと主張した。1938年『日本的性格』を出版。

 戦後の10年間ほどは日本最高の知識人として民主主義の徹底化、国際平和確立の重要性などを唱えた。1946年(昭和21)貴族院勅選議員となり新憲法の制定に参加。1947年帝国芸術院会員、1948年文化勲章受章、1950年『ある心の自叙伝』を出版。1954年東京都名誉都民に推され、同年、80歳を記念して友人・知人より小田原の地に「八旬荘」なる居宅を贈られる。昭和44年11月11日没。

[田中 浩]

『大内兵衛他編『長谷川如是閑選集』全7巻・補巻1(1969~1970・栗田出版会)』『『長谷川如是閑集』全7巻(1989~1990・岩波書店)』『長谷川如是閑著作目録編集委員会編『長谷川如是閑――人・時代・思想と著作目録』(1985・中央大学出版部)』『田中浩著『長谷川如是閑研究序説』(1989・未来社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「長谷川如是閑」の意味・わかりやすい解説

長谷川如是閑 (はせがわにょぜかん)
生没年:1875-1969(明治8-昭和44)

明治・大正・昭和期3代にわたって活躍したジャーナリスト,評論家。本名万次郎。東京深川に生まれる。もと山本姓であったが,1884年,曾祖母の養子となり改姓。父は材木商として成功し,1883年浅草で〈花屋敷〉と称する動物園なども備えた娯楽センターを経営したが,長谷川の少・青年期にしばしば事業に失敗,倒産,再建を繰り返した。98年東京法学院(中央大学の前身)を卒業,1903年,かねてから〈罪人の研究〉(60回連載)などを寄稿していた日本新聞社に入社した。06年,新社長伊藤欽亮と対立,三宅雄二郎(雪嶺)らと同盟退社するまで《日本》紙上でコラム〈簾視壁聴〉〈事局彙報〉などを担当した。08年2月,大阪朝日新聞社に入り,09年《大阪朝日》に《?》と題する小説を連載,後に《額の男》と改題して処女出版した。コラム〈天声人語〉を執筆するかたわら論説担当者として鳥居素川らとともに活躍,《大阪朝日》を〈大正デモクラシー〉の指導的言論機関の一つとして確立した。15年社会部長のときに全国中等学校優勝野球大会を発足させた。18年白虹事件の弾圧に抗して退社,19年大山郁夫,井口孝親らと我等社を設立し,雑誌《我等》(1930年《月刊批判》と改題)を創刊した。後に《現代国家批判》《現代社会批判》などにまとめられる鋭利でユニークな批判・言論活動を展開し,とくに,送り手の意識のありようにジャーナリズムの本質をみる独自の〈新聞〉理論を打ち立てた。満州事変の翌32年に《日本ファシズム批判》を著すが,発禁。47年帝国芸術院会員,48年文化勲章受章。晩年はライフ・ワークとみずから規定していた《国家行動論》(遺稿出版,1971)に取り組んだ。明治以来の日本ジャーナリズムの歩みを一身に体現するとともに,その多様な経験を独自の理論に結晶させている。《長谷川如是閑選集》全7巻,補巻1がある。
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百科事典マイペディア 「長谷川如是閑」の意味・わかりやすい解説

長谷川如是閑【はせがわにょぜかん】

自由主義思想家,ジャーナリスト。本名万次郎。東京生れ。東京法学院(現,中央大学)卒。1902年陸羯南の新聞《日本》に入り,三宅雪嶺らと同僚になり,コラムなどに健筆をふるう。《日本》退社後,政教社の雑誌《日本及日本人》を経て,1908年鳥居素川に迎えられて《大阪朝日新聞》に移り,1918年白虹事件で退社。1919年大山郁夫らと雑誌《我等》を創刊。これを拠点に《現代国家批判》《現代社会批判》《日本ファシズム批判》などにまとめられる言論活動によって国家主義を批判した。ほかに《ある心の自叙伝》など。1948年文化勲章。
→関連項目政教社森戸事件

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長谷川如是閑」の意味・わかりやすい解説

長谷川如是閑
はせがわにょぜかん

[生]1875.11.30. 東京
[没]1969.11.11. 小田原
ジャーナリスト,文学者,思想家。幼名は万次郎。 1898年東京法学院 (中央大学の前身) を卒業し,1902年日本新聞社に入社。 06年社長の陸羯南 (くがかつなん) が隠退し,新社長が三宅雪嶺と古島一雄の退社を命じたので,如是閑ら十数人も抗議して退社。 07年雪嶺のもとで『日本及日本人』の創刊に参加。 08年鳥居素川のすすめで大阪朝日新聞社に入社。やがて小説や紀行文も発表しはじめた。 14年社会部長になったが,18年の白虹 (はっこう) 事件で鳥居ら盟友とともに退社。 19年大山郁夫らと雑誌『我等』を創刊した (軍国主義の波の強まった 1930年に『批判』と改題し,34年廃刊) 。第2次世界大戦中は沈黙がちであったが,戦後の 46年貴族院議員,47年日本芸術院会員となり,48年文化勲章を受けた。『長谷川如是閑選集』 (全7巻,69~70) に代表著作が収められている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷川如是閑」の解説

長谷川如是閑 はせがわ-にょぜかん

1875-1969 明治-昭和時代のジャーナリスト,評論家。
明治8年11月30日生まれ。大正5年大阪朝日新聞社会部長となり,7年白虹(はっこう)事件で退社。8年大山郁夫らと「我等(われら)」を創刊,一貫して自由主義の立場からファシズム批判活動を展開した。昭和23年文化勲章。昭和44年11月11日死去。93歳。東京出身。東京法学院(現中央大)卒。旧姓は山本。本名は万次郎。著作に「現代国家批判」「ある心の自叙伝」など。
【格言など】外交官と幽霊は微笑をもって敵を威嚇す(「如是閑語」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長谷川如是閑」の解説

長谷川如是閑
はせがわにょぜかん

1875.11.30~1969.11.11

明治~昭和期のジャーナリスト・思想家。本名は山本万次郎。東京都出身。東京法学院卒。新聞「日本」をへて,1908年(明治41)「大阪朝日新聞」に転じ,コラム・論説・小説などで大正デモクラシー運動を先導する。18年(大正7)の白虹(はっこう)事件で引責退社。翌年雑誌「我等」を創刊。第2次大戦中は日本文化を研究,戦後もリベラリストとして活躍した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「長谷川如是閑」の解説

長谷川如是閑
はせがわにょぜかん

1875〜1969
明治〜昭和期の評論家
本名万次郎。東京の生まれ。東京法学院(現中央大学)卒。1903年,陸羯南の新聞『日本』に入社,'06年の雑誌『日本及日本人』の創刊にも参加。その後,大阪朝日新聞社員として,自由主義・デモクラシー思想による論説を展開。1919年雑誌『我等』創刊に参加した。'48年文化勲章受章。

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世界大百科事典(旧版)内の長谷川如是閑の言及

【大原社会問題研究所】より

…大原は初代所長高野岩三郎を信頼して,20年にわたって私財を投じつづけた。高野のもとに,櫛田民蔵,大内兵衛,森戸辰男,久留間鮫造,細川嘉六,笠信太郎らが所員となり,研究嘱託の長谷川如是閑ほか多くの研究者が参加し,日本の社会科学研究・社会調査に大きな貢献をした。アナーキズム文献では世界有数の〈エルツバッハ文庫〉や,年鑑編集のため社会運動団体の原資料などを収集したほか,講習会や研究生の育成も行った。…

【反ファシズム】より

…そのなかで1934年11月結成された全評(日本労働組合全国評議会)が組織目標に〈ファッショ,社会ファッショ反対〉を掲げ,37年まで反ファシズム運動を進めたことが注目されよう。 知識人の動きは,1933年4月の滝川事件に際して結成された大学自由擁護連盟,ナチスの焚書に対する抗議を契機に同年7月結成された反ナチス団体ともいえる学芸自由同盟(長谷川如是閑,徳田秋声,秋田雨雀,三木清ら)に示された。共に長くは続かなかったが,コミュニストや社会主義者よりもリベラル派が中心に結集した広範なグループで,明確な反ファシズム運動を形成した。…

【我等】より

…大正から昭和初期の高級評論雑誌。1918年の〈白虹事件〉で大阪朝日新聞社を退いた長谷川如是閑が1919年2月,大山郁夫,井口孝親らと我等社をつくって創刊した。丸山幹治,伊豆富人,大庭柯公らが参加した。…

※「長谷川如是閑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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