山直郷
やまだいごう
現岸和田市東部、牛滝川下流の谷間と丘陵地に位置した中世の郷。古代の和泉郡山直郷(和名抄)の後身。平安時代の山直郷は国衙の支配する公領の郷(公郷)の一つであった。源平内乱期の寿永二年(一一八三)一二月八日、山直郷百姓らは近隣の八木郷・加守郷百姓とともに八木郷にあった奈良興福寺末寺久米田寺が百姓らの私領を寺領として立庄しようとしたのに反対して、その停止を要求する申状を国衙に提出した。その頃平氏は木曾義仲に敗れて都落ちしており、源行家が和泉国司を兼ねていたが、行家は八木・山直・加守三ヵ郷百姓の訴えを認め、久米田寺の寺領田は一町四反一〇〇歩だけであるのに、同寺が謀書を構えて神社仏寺権門勢家百姓ら私領をにわかに寺領と号するのは言語道断である、という裁定を下している(宝治二年一二月五日「関東下知状」久米田寺文書)。
中世の山直郷の地は、条里制によって幾つかの里に区分されていた。鎌倉時代の久米田寺免田を記した文書(欠年「久米多寺免田注文」久米田寺文書)によると、郷内には多治米里・上久米多里・摩伊里・社里・下久米多里・吹井里・波多山里・山直里など八つの里があった。多治米里は現岸和田市田治米町、摩伊里は同じく摩湯町にその名を残している。
山直郷
やまたえごう
「和名抄」高山寺本・東急本は表記を異にするがともに「やまたえ」(夜末太倍・也末多倍)と訓ずる。当郷の中心氏族である山直の氏名の転訛したものであろう。なお「やまだい」「やまなお」と読まれることもある。「和泉志」は積川・稲葉・中・包近・三田・摩湯・多(田)治米・新在家(現岸和田市)の八村を郷域とする。牛滝川中流域の平野部と丘陵地帯からなり、山直・積川・楠本・淡路の四社の式内社がある。郷名の初見は「日本霊異記」中巻に「郡内の山直の里に至りて麦畠に押し入る」とあるものである。郷内には前期の古墳としては和泉地方最大の墳丘長二〇〇メートルの前方後円墳である摩湯山古墳がある。
山直郷
やまなおごう
「和名抄」高山寺本は「也末」、東急本は「也末奈保」と訓ずる。「輿地志略」が「土俗過つて山尾の郷といふ」ともするようにヤマナホ、ヤマナオが正しいと思われるが、ヤマ郷の例は確認できない。なお「大日本地名辞書」は直はアタヒとしてヤマノアタヒ郷と訓ずるべきだとしている。初見は平城宮跡出土木簡の「(表)近江国甲可郡山直郷」「(裏)□□□□麻呂六□」であるが、これ以外には古代文献に所見はない。
山直郷
やまたへごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠くが、和泉国和泉郡山直郷・近江国甲賀郡山直郷が「和名抄」にあり、夜末太倍・也末多倍・也末奈保などの訓があるので、ヤマタヘ郷またはヤマナホ郷と訓ずると考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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