八木郷(読み)やぎごう

日本歴史地名大系 「八木郷」の解説

八木郷
やぎごう

和名抄」に訓はないが、「やぎ」と読んだとみられる。「和泉志」は今木いまき池尻いけじり大町おおまち西大路にしおおじ東大路小松里こまつり下池田しもいけだ箕土路みどろ中井なかい吉井よしい(現岸和田市)を郷域とするが、牛滝うしたき川下流域と久米田くめだ池を用水源とする地域が含まれている。箕土路・中井には弥生中・後期の遺跡があり、久米田池の北辺には約一三基からなる前期末から中期前期の期間に営造された久米田古墳群がある。そのうち貝吹山かいぶきやま古墳は墳丘長一三五メートルで周濠・円筒埴輪・葺石を備えている。また久米田池の内部に八世紀以前の須恵器窯跡の存在も指摘されている。


八木郷
やぎごう

久米田くめだ池の所在地およびその北方一帯に比定される中世の郷。古代の和泉郡八木郷(和名抄)の後身。源平内乱の渦中の寿永二年(一一八三)一二月、八木郷の百姓らは郷内にある久米田寺が百姓私領を寺領化しようとしたのに反対し、山直やまだい郷・加守かもり郷百姓とともにその停止を国司に訴えた。当時、国司の地位にあったのは木曾義仲と並んで都を制覇していた源行家であった(宝治二年一二月五日「関東下知状」久米田寺文書)。行家はやがて源頼朝に敵対して文治元年(一一八五)一一月、源義経とともに都落ちし、翌年五月に和泉国で捕らえられて生涯を終えるが、このとき行家の潜伏した場所を「吾妻鏡」は「和泉国一在庁日向権守清実」の「(近)木郷宅」とし(文治二年五月二五日条)、「平家物語」巻一二(泊瀬六代)は「和泉国八木郷」、「尊卑分脈」の行家の傍注は「和泉国八木小屋」と記している。文暦二年(一二三五)の和泉国田所の注進によると、八木郷には久米田寺領の免田が五町一〇〇歩あったといわれるが(前掲関東下知状)、一方、欠年の久米多寺免田注文(久米田寺文書)では八木郷の免田は三町一反六〇歩とあり、それらは条里制の七つの里(岡田里・上池田里・下池田里・大坊里・下里・八木里・小松井里)に分布していた。


八木郷
やぎごう

現下八木・北八木、湖東ことう小八木こやぎ付近に比定される古代から続く中世郷。天治二年(一一二五)八月日の近江国司庁宣(早稲田大学所蔵文書)によれば、当郷のうちにある香御園こうのみその庄の四六町の田が同庄の寄人によって請作されていた。長承二年(一一三三)国司顕輔が吉田よしだ(現犬上郡豊郷町)を立庄した際、これらの土地が同庄のうちに打籠められてしまった(保延四年五月二〇日「鳥羽院庁下文」同文書)。保延五年(一一三九)一一月には当郷内の土地が香御園庄とされている(「近江国司庁宣」同文書)


八木郷
やぎごう

「和名抄」は諸本とも訓を欠くが、現秦荘はたしよう町北西部に遺称とみられる下八木しもやぎ北八木きたやぎなどの地名が残り、表記も八木以外に見いだせないからヤギであろう。郷域は郷内に善田よしだ(吉田庄とも)があり、しかも同庄内にこう御園があったことが確かめられるから、秦荘町南部と犬上いぬかみ豊郷とよさと町南部を含むとみて間違いない。延暦一五年(七九六)一一月二日の近江国八木郷墾田売券案(金比羅宮所蔵文書)に「八木郷戸主民首田次麻呂」などとみえ、秦氏の居住の濃密さと同時に、民首氏という漢氏一族の居住がみられることも興味深い


八木郷
やぎごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「夜岐」と読む。長元三年(一〇三〇)の「交替実録帳」群馬郡に「八木郷肆町肆段」とみえ、また「八木院 北一板倉壱宇」があった。郷域について「日本地理志料」は現群馬町南部から現高崎市北東部および現前橋市西端の鳥羽とばにわたる地とし、「大日本地名辞書」は旧中川なかがわ(現高崎市の北東部)、旧つつみおか(現群馬町の南部)とする。


八木郷
やぎごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠く。郷域は明らかでないが、「大日本地名辞書」は他の諸郷との関係から山辺やまのべ郷の西に続く最上川の五百川いもがわ峡谷一帯、現西村山郡朝日あさひ町から大江おおえ町にかけての地域にあてる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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