山県太華
やまがたたいか
(1781―1866)
江戸後期の儒学者。周防国(すおうのくに)の生れ。名は禎、字(あざな)は文祥(ぶんしょう)。太華は号。荻生徂徠(おぎゅうそらい)の初期の門人であった長州藩儒山県周南(しゅうなん)の家学を継承。藩校明倫館で学んだのち、亀井南冥(なんめい)に師事して古文辞学(こぶんじがく)を修めるが、江戸滞在を経て朱子学に転じる。1810年(文化7)明倫館学頭(がくとう)助役、藩主毛利斉元(なりもと)の側儒(そくじゅ)となり1824年(文政7)側儒専任となる。1835年(天保6)明倫館学頭兼祭酒(さいしゅ)となり、学風を従来の徂徠学から朱子学へと一変させた。主著に吉田松陰(しょういん)の『講孟箚記(こうもうさっき)』が天皇への一元的な忠を説くものだと批判した『講孟箚記評語』のほか、『民政要編』『国史纂論(こくしさんろん)』『周官備考』などがある。
[松村浩二]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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山県太華 (やまがたたいか)
生没年:1781-1866(天明1-慶応2)
江戸後期の儒学者。名は禎,字は文祥,半七と称する。周防の人。山県周南の家を継ぐ。明倫館に学び,ついで亀井南冥に師事。のち江戸へ行き,家学を捨て朱子学に転じた。長州藩主毛利斉元の側儒となり,1810年(文化7)から15年間学館兼勤,35年(天保6)明倫館学頭・祭酒となり,学風を朱子学に改め,新学館の建設に尽力した。50年(嘉永3)免職となる。著書は《国史纂論》など。
執筆者:頼 祺一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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山県太華 やまがた-たいか
1781-1866 江戸時代後期の儒者。
天明元年生まれ。山県周南の後裔。家学の徂徠(そらい)学を亀井南冥(なんめい)にまなぶが,江戸で朱子学にふれ転向。文化7年長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩主毛利斉元(なりもと)の側儒。9年藩校明倫館学頭をかね,学風を朱子学にあらためた。慶応2年8月16日死去。86歳。周防(すおう)(山口県)出身。名は禎。字(あざな)は文祥。通称は半七。編著に「民政要編」「国史纂論(さんろん)」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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山県太華
やまがたたいか
[生]天明1(1781).周防
[没]慶応2(1866).8.
江戸時代後期の朱子学派の儒学者。名は禎,字は文祥,通称は半七。太華は号。長州藩主の侍講,藩校明倫館の学頭となり,新明倫館建設や式日作法改正に従事した。著書『国史纂論』『民政要綱』。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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