朝日日本歴史人物事典 「山県太華」の解説
山県太華
生年:天明1(1781)
幕末の儒学者,長州(萩)藩士。亀井道載(南冥)に徂徠学を学び,のち江戸に遊学して林家で朱子学を修める。文化7(1810)年藩校明倫館の学頭助役,同9年側儒。天保6(1835)年学頭となり明倫館の拡充を図る。嘉永3(1850)年学頭を退き,病を得て同5年隠居した。安政3(1856)年吉田松陰より『講孟余話』を送られ評語を返す。松陰は日本独自の君臣関係を強調する。一君万民論の主張である。これに対して,君主関係は世界万国に妥当する規範だとの反論を加えた。朱子学からの批判である。松陰は承服しなかったものの,学問への姿勢に感銘を深くし「翁,廃後半身痿痺し,左手もて字を写す。其の点画を諦視するに,勃卒欹斜,或は断え或は続く。以て其の紙を展べ筆を下すの時を想うべし」との感慨を記している。養子の半蔵は尊攘運動に参加,慶応2(1866)年の第2次長州征討下,宍戸備後助(のち磯)と姓名を改め藩を代表して征長軍と交渉した。そうした状況をみながら86歳で没。
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報