改訂新版 世界大百科事典 「徂徠学」の意味・わかりやすい解説
徂徠学 (そらいがく)
江戸中期の儒者荻生徂徠(1666-1728)が唱えた儒学思想。その内容は徂徠の主著《学則》《弁道》《弁名》《徂徠先生答問書》などに述べられる。徂徠以前にもっとも勢力のあった儒学思想は朱子学であって,徂徠もはじめは朱子学を学んだが,40代の中ごろ,1710年(宝永7)ころから朱子学に二つの点で疑問を抱くようになった。朱子学では,道徳の修養を積んで人格を完成させるのが人間のつとめであると教える。徂徠の疑問の第1は,あたかも18世紀の初頭から幕藩体制は行きづまりの兆候を見せはじめていたが,道徳をしきりに説き,道徳を守りさえすれば事足れりとする朱子学のような非政治的な思想をもって,当代の政治的危機に対処できるだろうかということであり,第2は,あまりにも厳格に道徳を説く朱子学は人情の自然を抑圧するのではないだろうかということである。朱子学が誤っているとすれば,それは四書五経を誤読し,そこに書かれている聖人の教えを誤解したということであるから,徂徠は,二つの疑問を解決するためには四書五経を正確に読解せねばならず,それには四書五経の言語=古代中国語に習熟するところから始めねばならないと考えた。おりから徂徠は,中国明代の古文辞派と呼ばれる文学集団の指導者李攀竜(りはんりよう),王世貞(おうせいてい)の文集に接して,古代中国語に習熟するための方法について大きな示唆を与えられた。古文辞派は,〈文は必ず秦漢,詩は必ず盛唐〉というスローガンのもとに,秦漢の文,盛唐の詩を徹底的に模倣する擬古主義の文学運動を展開した一派である。徂徠はこの文学上の主張を語学習得の手段に転用し,古代中国語に習熟するには,擬古主義の詩文を実際に作って,古人の心を体得するのが最良の方法であると考えついた。徂徠はそれをみずから実践し,門人にも奨励した。この面に即して,徂徠学を別に古文辞学と称し,徂徠の門流を中国と同様に古文辞派と称する。中国の古文辞派と異なって,徂徠の場合には擬古主義の詩文の制作はあくまでも手段であり,目的は,四書五経を正しく読解して,朱子学に代わって真の聖人の教えを明らかにすることにある。40代後半を費やした真剣な思索の末に,50代のはじめ,ちょうど徳川幕府が8代目の将軍として吉宗を迎えたころ,ようやく徂徠は独自の儒学思想,すなわち徂徠学を樹立した。
徂徠学の独創性は,〈道〉の定義にもっともよく表れる。徂徠によれば,聖人の道とは,天下を安んずる営みのことであり,具体的には,尭・舜など古代中国の理想的君主たち(儒学の用語で〈先王(せんのう)〉という)の制定した政治制度を指すという。儒学の歴史を通じて,道とは道徳を意味し,儒学とはまずもって道徳の教えだったのであるが,徂徠はそうした儒学の伝統をまったく無視して,儒学の使命を,天下を安んずるという政治性に求め,道徳のような個人の内面にかかわる問題を儒学の管轄範囲からはずすという,画期的な思想を唱えたのである。つまり徂徠学は,強い政治志向性と,道徳を論じないところからくる人間性への寛容という二つの特徴を有する。この特徴はまさに先に述べた朱子学に対する徂徠の二つの疑問を解決している。徂徠が道の具体的内容を先王の政治制度と説いたのは,先王の政治が四書五経において理想的なものとしてたたえられているからであって,先王の政治制度を江戸中期の当代にそのまま行うべきであると考えたわけではない。徂徠の真意は,道を行うということは,道徳の説教をすることではなく,先王がかつてそうしたように,天下を安んずるうえで有効な制度を定めることである,と論ずるところにある。この主張に基づいて,徂徠はみずからの制度改革論を展開した《政談》を著して将軍吉宗に献上した。徂徠学のもう一つの特徴である人間性への寛容という面では,徂徠は〈気質不変化説〉を唱えた。人間の生得の気質は画一的な道徳によって変化させうるようなものではなく,むしろ各人各様の気質をそのまま伸張させたほうが社会的に有意義であるとする説である。この主張には人間性解放の側面があったので,本来は語学習得の手段であった詩文の制作がここに結びついてきて,詩文は人間性の表現としても制作が奨励されるに至る。それまでの漢詩文は儒者の余技という消極的な位置しか与えられず,勧善懲悪論に拘束されていたが,古文辞派以後の詩文は文学として解放されたのである。
身分制度の固定した江戸時代において一般人が政治に関与することは不可能であったから,政治の学としての徂徠学は支持基盤がなく,徂徠一代限りで消滅せざるをえなかった。したがって徂徠学は,人間性解放の理論としての側面だけが,享保(1716-36)から宝暦(1751-64)ころまで,漢詩文を作る層=知識人の間で大流行した。しかし道徳に関心を向けない儒学というものは江戸時代の社会通念からあまりにもかけ離れていたため,やがて人々の抵抗感を呼び起こして,天明(1781-89)ころには支持者を失ってしまった。
執筆者:日野 龍夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報