岡崎 勝男
オカザキ カツオ
- 肩書
- 衆院議員(自民党),外相,国連大使
- 生年月日
- 明治30年7月10日
- 出生地
- 東京
- 出身地
- 神奈川県茅ケ崎市
- 学歴
- 東京帝大経済学科〔大正11年〕卒
- 経歴
- 大正11年外務省入省。在英大使館勤務中の13年、オリンピック第8回大会に陸上競技の選手として出場。昭和3年上海在勤副領事、5年領事。20年8月終戦のとき終戦連絡中央事務局長官となり連合国側との困難な折衝に当たる。23年外務次官、24年衆議院議員に当選、吉田ワンマン首相にその手腕を見込まれ側近中の側近になった。のちに内閣官房長官、賠償庁長官、外務大臣をつとめ戦後処理と外交政策の基礎づくりに苦心した。政界引退後、国連大使に登用され、わが国の国際的地位の向上に貢献。
- 没年月日
- 昭和40年10月10日
- 家族
- 孫=伊奈 恭子(フィギュアスケート選手)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
岡崎 勝男
オカザキ カツオ
昭和期の政治家,外交官 衆院議員(自民党);外相;国連大使。
- 生年
- 明治30(1897)年7月10日
- 没年
- 昭和40(1965)年10月10日
- 出生地
- 東京
- 出身地
- 神奈川県茅ケ崎市
- 学歴〔年〕
- 東京帝大経済学科〔大正11年〕卒
- 経歴
- 大正11年外務省入省。在英大使館勤務中の13年、オリンピック第8回大会に陸上競技の選手として出場。昭和3年上海在勤副領事、5年領事。20年8月終戦のとき終戦連絡中央事務局長官となり連合国側との困難な折衝に当たる。23年外務次官、24年衆議院議員に当選、吉田首相にその手腕を見込まれ側近中の側近になった。のちに内閣官房長官、賠償庁長官、外務大臣をつとめ戦後処理と外交政策の基礎づくりに苦心した。政界引退後、国連大使に登用され、わが国の国際的地位の向上に貢献。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
岡崎勝男
おかざきかつお
[生]1897.7.10. 神奈川
[没]1965.10.10. 東京
外交官,政治家。 1922年,東京大学を卒業。外務省に入る。 45年終戦連絡中央事務局の初代長官。 47年外務次官として終戦事務,占領軍との折衝にあたる。 49年衆議院議員となり,51年国務相 (賠償庁長官) ,52年外相。終始吉田茂の側近として吉田外交を補佐し,対日講和条約交渉,日米行政協定や MSA協定の締結に尽力した。 55年衆議院選挙で落選。政界から身を引いたが,61年,国連大使に返り咲いた。戦後の吉田外交の忠実な推進者であった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
岡崎勝男 おかざき-かつお
1897-1965 昭和時代の外交官,政治家。
明治30年7月10日生まれ。外務省にはいり,昭和20年降伏文書調印式で重光葵(まもる)全権の随員。外務次官をへて,24年衆議院議員(当選3回,自由党)となり,第3-第5次吉田内閣の官房長官,国務相,外相をつとめた。36年国連大使。昭和40年10月10日死去。68歳。東京出身。東京帝大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
岡崎 勝男 (おかざき かつお)
生年月日:1897年7月10日
昭和時代の政治家;外交官。衆議院議員
1965年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の岡崎勝男の言及
【MSA協定】より
…1954年3月8日,岡崎勝男外務大臣とアリソンJ.M.Allison駐日アメリカ大使との間で調印された協定で,〈相互防衛援助協定〉〈農産物購入協定〉〈経済措置協定〉〈投資保障協定〉の四つからなる。日本の軍事力増強を図るためにアメリカが援助を与えることを主旨とし,その根拠がアメリカで1951年10月に成立した相互安全保障法Mutual Security Act(略称MSA)に求められたのでこの名がある。…
※「岡崎勝男」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」