久米田池(読み)くめだいけ

日本歴史地名大系 「久米田池」の解説

久米田池
くめだいけ

[現在地名]岸和田市池尻町・岡山町

泉南地方屈指の貯水池で、周囲約四キロ(俗に一里二町という)、水深三・六メートル、水面積約六・二四平方キロ。池の東西は低い丘陵に挟まれ、北側に長い堤が連なり、北東隅に牛滝うしたき川から引込んだ水の取入口、北西隅池尻に用水を落す樋が設けられている。府指定史跡名勝。久米田池は奈良時代に行基が和泉地方で開いた八ヵ所の池の一つで、「行基年譜」に「久米多池 在泉南郡丹比部里」とある。丹比部たじひべ里は現在の田治米たじめ町にあたる。また同年譜に行基が開削した「久米多池溝」(長さ二千丈、広さ五尺)もみえる。中世に流布した久米田寺の古縁起によると、久米田池は神亀二年(七二五)春に着工され、堅牢地神が黄牛となって現れて塊を引き、日月星辰が白人となって堤を固め、大聖老人が黒鷲嶺の土を運んでこれを築き、善哉童子が青冷山の壌を担ってこれに加えるという天地の感応があって、国中神祇・州内人民を励まし、天平一〇年(七三八)秋に完成、その年、池のほとりに行基の四十九院の一つ隆池りゆうち(のちの久米田寺)が建てられたという(弘安五年五月三日「太政官牒」・「隆池院縁起」久米田寺文書)

隆池院縁起には同院に寄せられた「水田三百町、山林千町」をもって宝池(久米田池)に修理を加えたという伝承がみえるが、中世初期における久米田寺領の免田は二六町四反余にすぎず(文治三年八月日「和泉国司庁宣」久米田寺文書)、これのみをもって広大な池を維持管理することはできなかったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「久米田池」の意味・わかりやすい解説

久米田池
くめだいけ

大阪府南部、岸和田市(きしわだし)池尻(いけじり)にある古池。堤長2650メートル、堤高(最高所)8メートル、水面積46.5ヘクタール、貯水量157万立方メートルの溜池(ためいけ)で、牛滝(うしたき)川の水を引き下流水田を灌漑(かんがい)する。725年(神亀2)僧行基(ぎょうき)の尽力により築造、池畔に久米田寺を建立、池の守護寺とした。久米田寺境内は府の史跡に指定されている。

[位野木壽一]

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デジタル大辞泉プラス 「久米田池」の解説

久米田池

大阪府岸和田市池尻町と岡山町にまたがる農業用溜池。牛滝川の水を貯水して、周辺農地を潤す。8世紀前半、干ばつに苦しむ農民を救うため、僧・行基が指導し14年の歳月をかけて築造されたものと伝わる。周辺の小さな池を取り込みながら、現在の大きな池に改修された。池のほとりに行基が開創した久米田寺があり、お盆には同寺信徒による灯籠流しが行われる。

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