岸村(読み)きしむら

日本歴史地名大系 「岸村」の解説

岸村
きしむら

[現在地名]武蔵村山市岸・岸一―五丁目・中原なかはら一―五丁目

三ッ木みつぎ村の西に位置し、西は殿ヶ谷とのがや(現瑞穂町)、南は殿ヶ谷新田(現立川市)、北は石畑いしはた(現瑞穂町)。北側の狭山丘陵沿いに人家が散在し、神明入しんめいいりや猿久保さるくぼといった谷戸地に天水や湧水を利用した田地が開かれていた。一方、南側の平地には新田分などの畑地が広がり、東西に通る青梅おうめ街道には風除けのために明暦元年(一六五五)に村中で植えたという松並木があった。南を残堀ざんぼり(蛇堀川)が流れる。江戸時代を通じ幕府領。田園簿に村名はみえず、村山村に含まれた。


岸村
きしむら

[現在地名]浦和市岸町一―七丁目・東岸町ひがしきしまち神明しんめい一―二丁目

浦和町の南に位置し、中央部を中山道が縦貫する。村名は大きな川の岸に臨むことに由来するとの説もあるが(風土記稿)、当地の調つき神社との関係から、「日本書紀」欽明天皇二三年条にみえる渡来人調連の一族調吉士伊企儺の吉士が岸になったのではないかという説が有力になりつつある(浦和市史)。式内社調神社は武蔵国有数の古社で、同社を中心とする地域は郷名を同社にちなむとされる大調おおつき郷に含まれ、「和名抄」にみえる足立郡大里おおさと郷は大調郷の誤記ではないかともいわれている。中世の大調郷については、建武三年(一三三六)二月二〇日の足利尊氏寄進状写(岩井文書)によると、足利尊氏が武蔵国大調郷地頭職を大宮氷川神社に寄進したとされる。


岸村
きしむら

[現在地名]加古川市西神吉町岸にしかんきちようきし

大国おおぐに村の南、法華山谷ほつけさんたに川の中流域東岸に位置する。文安二年(一四四五)六月一三日、印南郡貴志きし住人と推定される原氏一族は景重跡職について連署契状(赤松文書)を記している。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)によると木下家定は岸村内高三六六石余などを与えられている。慶長国絵図にも村名がみえる。正保郷帳では田方五七〇石余・畑方八〇石余。


岸村
きしむら

[現在地名]加西市福居町ふくいちよう

坂本さかもと村の西に位置し、八千種やちくさ春日かすが山系の谷間に立地する。西は別名べつめ村。慶長六年(一六〇一)一一月三日、佐藤少兵衛は池田輝政から岸村四八六石余など都合八〇〇石を宛行われている(「佐藤長樹家譜」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代を通じて姫路藩領であった。正保郷帳では田方三三六石余・畑方五五石余。元禄郷帳では高二六一石余。村高の減少は別名村の分村による。天保郷帳では高三三九石余。明治九年(一八七六)別名村と合併して福居村となる。寺前てらまえに紫雲山西蓮さいれん寺、おくたにに久斗山西岸せいがん寺、久斗谷くとうだにに久斗山長円ちようえん寺がある。


岸村
きしむら

[現在地名]川越市岸町・岸

大仙波おおせんば村の南、不老としとらず川北岸の低平地帯。川越街道が南北に抜けるが、大仙波村へ至る急坂をうとう坂(烏頭坂)という。文明一八年(一四八六)河越を訪れた聖護しようご院道興は「うとふ坂こえて苦しき行末をやすかたとなく鳥の音もかな」と詠じている(廻国雑記)。田園簿に宇戸沢うとさわ村とみえ、田高八五石・畑高一九六石、幕府御鷹師長田金平領二六五石・旗本米津領一六石の相給。長田金平は万治二年(一六五九)に処分を受けており(寛政重修諸家譜)、所領は上知されたとみられ、元禄六年(一六九三)村絵図(船津家蔵)では川越藩領とある。米津氏分は同一〇年上知となり、一村全部が川越藩領となったものとみられる(元禄一二年「柳沢氏領知目録」柳沢文庫蔵)


岸村
きしむら

[現在地名]本川根町上岸かみぎし

藤川ふじかわ村の南に位置し、大井川中流左岸、無双連むそれ山北側の緩やかな傾斜地に立地する。駿河国志太しだ郡のうち。慶安二年(一六四九)の駿河国高付(志太郡誌)に村名がみえ、田方永七二三文・畑方永三〇貫六九九文。元禄郷帳によると高一五七石余、幕府領。旧高旧領取調帳でも幕府領。「駿河志料」によると小地名に杉山すぎやま小山こやまがあり、日光権現・稲荷、曹洞宗昌岸寺(現廃寺)・弥陀堂がある。元禄一二年(一六九九)春の不作により困窮したため金一〇両一分を借入れ、米八石六斗余を購入、うち四石五斗余は飢人九八人に貸付け、残りの四石余は村中の百姓に割付けた(「借米代金請取状」高橋家文書)


岸村
たるきしむら

[現在地名]寿都郡寿都町字樽岸町

明治初年(同二年八月―同六年の間)より大正一二年(一九二三)まで存続した村。六条ろくじよう村の南東にあり、東部は寿都湾に臨む。朱太しゆぶと川左岸にあたる。明治四年(一八七一)の海岸通調では「タルキイシ、十九戸」とある(北海紀行)。同六年の「後志国地誌提要」に樽岸村とみえ、戸数三八、人口一七四(うち土人一三)で、稲荷社(文政八年建立)・稲生社(慶応年間建立)が祀られる。明治一二年戸長役場設置(状況報文)。同年の「共武政表」に戸数六四・人口二六五、馬一四、日本形船舶八七、物産は鮹・鯡・鰊・鱒・鮭・鯑・鮑・煎海鼠・昆布・木材とある。


岸村
きしむら

[現在地名]島田市岸町・岸

阿知あち村の東、道悦島どうえつじま村の北、北東部は山地で、南に向かって低地となる。東海道が通る。村内に庄九郎しようくろう新田を抱えている。永禄一二年(一五六九)一月一八日の臨済寺領・天沢寺領等書立土代(臨済寺文書)に塔頭定恵じようけい(現静岡市)領として「岸」とみえ、須藤氏の知行分の米方四五石を定恵院が買取っていた。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に岸村とみえ、高四一五石余、田中藩領。


岸村
たるきしむら

大正一二年(一九二三)より昭和三〇年(一九五五)まで存続した村。大正一二年四月樽岸村・湯別ゆべつ村の合併により新たに樽岸村が成立、二級町村制施行。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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