川原田村(読み)かわらだむら

日本歴史地名大系 「川原田村」の解説

川原田村
かわらだむら

[現在地名]中島村川原田かわはらだ・中島

東流する阿武隈川北岸に位置し、南は深仁井田ふかにいだ(現東村)、北は二子塚ふたごづか村、東は吉岡よしおか村、西は関和久せきわぐ(現泉崎村)。水戸街道が村の中央を南北に通る宿駅で、問屋が置かれた。古代の東山道は川原田から行方ゆきかた野を通り磐瀬いわせ郡に達したという。初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)越後高田藩領、文政三年(一八二〇)以後幕府領。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四七七石余。白河藩主丹羽長重の政策であった開田奨励で、西原にしはら新田を七右衛門など一六人で開き、持高は一八一石余であった(中島村史)


川原田村
かわらだむら

[現在地名]栃木市川原田町

野中のなか村の東にあり、東は合戦場かつせんば宿(現下都賀郡都賀町)白地しらじ沼をはじめ天神てんじん淵・かがみ池・赤津あかづ沼など巴波うずま川の源流をなす湧水が多く、もとは合戦場辺りまでを川原田と称したが、大永三年(一五二三)皆川宗成と宇都宮忠綱の合戦があり、その主戦場を合戦場というようになったと伝える。白地沼は修羅地沼から転じたものという。川原田一帯から北の木野地きのじの一部にわたる地を標茅しめじはらといい、「古今六帖」に詠む「しもつけやしめつのはらのさしも草おのが思ひにみをややくらん」は当地のこととされる。


川原田村
かわらだむら

[現在地名]四日市市河原田かわらだ

貝塚かいづか村の西、内部うつべ川の南にあり、伊勢参宮街道が村域を南北に走る。河原田とも記す。江戸時代は、初め津藩領、寛文九年(一六六九)久居藩成立後は両藩の相給。寛延(一七四八―五一)頃の「宗国史」には「旧有今宿、柴、中川原田、北川原田」と注記がある。初めは、現在地より東、鈴鹿川に近く芝原しばら・中川原田・東川原田があったが、万治二年(一六五九)・天明四年(一七八四)の大洪水によって移転したと伝える(河原田地区郷土史)。「宗国史」によれば、津藩支配分は、石高九四六石余。


川原田村
かわはらだむら

[現在地名]徳島市国府町川原田こくふちようかわはらだ

西高輪にしたかわ村の西、飯尾いのお川右岸にあり、集落は同川の自然堤防上に位置する。寛文四年(一六六四)までは以西いさい郡に属した。慶長二年(一五九七)の分限帳には河原田とあり、一六〇石余が陰山久助、二七石余が田中九右衛門の各知行分。正保国絵図では高一八五石余。寛文四年の郷村高辻帳では田方四一石余・畠方一四七石余。文化三年(一八〇六)の名東郡中地高物成調子帳(四国大学凌霄文庫蔵)では井戸組に属し、高二〇五石余、うち蔵入分六五石余・給知分一四〇石余。


川原田村
かわらだむら

[現在地名]掛川市上西之谷かみにしのや

原野谷はらのや川の支流西之谷川上流にあり、南は上島かみじま村。北西は榑子くれご村。文禄二年検地高目録に「川原田」とみえ、高一〇石余。正保郷帳では田方四石余・畑方二石余、掛川藩領。国立史料館本元禄郷帳でも同藩領。宝永八年(一七一一)の村差出帳控(山崎家文書)では幕府領。享保郷村高帳では掛川藩領。明和七年(一七七〇)幕府領から掛川藩領となり(文政一二年御高等書留)、幕末に至る。


川原田村
かわらだむら

[現在地名]上市町川原田

稗田ひえだ村の西、上市川と白岩しらいわ川の扇状地の間に広がる平野部中央に位置し、南を白岩川が流れ、北は正印しよいん村。白岩川の氾濫原を開拓したものであろう。正印村からの道があり、白岩川の対岸には大尾川原だいおがわら村がある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高八〇石、免三ツ三歩、小物成は鮎川役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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