川野村(読み)かわのむら

日本歴史地名大系 「川野村」の解説

川野村
かわのむら

[現在地名]奥多摩町川野

はら村の西、多摩川上流域両岸の山間の村。青梅おうめ街道が通る。小河内おごうち四ヵ村のうちで、小河内川野村、また河野とも記された。天正一九年(一五九一)と推定される四月一〇日の大蔵少輔信教所領宛行状写(杉田家文書)によると、杉田越後守は徳川家康に帰属していた三田信教から本領の「河野」および大木おおき(青木か)と原島左京亮旧知行分の領有を認められている。慶長二年(一五九七)検地帳(同文書)によると、永一〇貫五九一文、ほかに屋敷地高五六〇文。田園簿では小河内村のうちで、元禄郷帳では小河内川野村として高一五七石余。承応三年(一六五四)の川野村名主七兵衛差出(杉田家文書)によると、七兵衛家は小田原北条家旧臣であったが、同家没落後に祖先の杉田越後が三田大蔵殿から領地をもらい、甲州境を守備した。


川野村
こうのむら

[現在地名]香北町河野こうの

かわうち村の北、物部ものべ川支流河内かわのうち川の最上流に位置し、北は山嶺を隔てて長岡郡豊永とよなが(現大豊町)。主集落は標高六〇〇メートルの山腹緩斜面に位置し、下流谷間には河茶こうちや集落がある。近代以降は河野の表記を用いる。

長宗我部地検帳・「南路志」などには川野村の記載はないが、元禄郷帳には一七・七六七石が記される。元禄地払帳でも川野村の記載はないが、本田高の数値から考えて西南方の西俣にしまた(現土佐山田町)に含まれていたと思われる。「土佐州郡志」に戸数およそ二五、寛保郷帳には家数三七、人数一七一、牛二〇、猟銃八とある。


川野村
かわのむら

[現在地名]吉川町川野

川富かわどみ村の北に位置し、村の西を古利根川、村内中央を二郷半領にごうはんりよう用水が流れる。田園簿に村名がみえ、田高一三五石余・畑高八三石余で、幕府領。化政期の家数三五(風土記稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android