小河内村
おがうちむら
[現在地名]安佐北区安佐町小河内
沼田郡北端の村で、東の牛頭山・本串山、西の滝山(六九二・七メートル)などの山々の間を小河内川が南流し、小浜で西北から南東へ蛇行する太田川に合流する。東は高宮郡鈴張村・飯室村、北は山県郡今吉田村・吉木村(現豊平町)、西は同郡穴村(現加計町)、南は太田川を挟んで沼田郡久地村に境する。鈴張村から穴村までの各村とは山越の小道で通じていた。なお近世には当村以下久地・毛木・後山・宮野・筒瀬の各村を奥組とよんだ。
中世の支配関係は不明であるが、東隣の飯室村や南隣の久地村が国衙領であったから、当地域も国衙の影響下にあった可能性がある。応永一一年(一四〇四)九月二三日の安芸国諸城主連署契状(毛利家文書)には、在地名を冠する「小河内沙弥妙語」の名がみえるが、享禄四年(一五三一)閏五月九日の毛利元就証状(吉川家文書)では、小河内は鈴張・飯室など五村とともに吉川興経に安堵されている。
小河内村
おごうぢむら
[現在地名]日野町小河内
北東流する日野川左岸に位置し、東は黒坂村。尾江路・小江路とも記す。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳は「ヲガウチ」と訓ずる。集落は山一つ隔てて東の小河内、西の布瀬谷からなる。村内を日野川に沿って日野往来が通り、西の楢原村までの道幅三尺、険阻な道が二町一六間続き、平地より二一間の高さを通る。うち幅五尺の桟橋が五間続き、橋が壊れれば川の傍らを歩く状態だった(享保一一年「因伯地理志」)。村名は当地方に配流された長谷部信連の郎党小河内某にちなむという(「長谷部氏家譜」長谷部家文書)。「大山寺縁起」にみえる「日野の奥河内」は当地のことであろうか。
小河内村
おごちむら
[現在地名]三朝町小河内
小和村の南に位置し、加茂川上流の小支流の集まる小平坦地を中心に広がる。小和村は当初当村の枝村として開発されたが、明治二年(一八六九)に藩内限りで分村した(藩史)。拝領高二四七石余。本免五ツ八分。和田氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高三〇〇石余、竈数五〇余。柿谷村へ一里、鎌田村へ二二町、本泉村へ一里。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三四六石余(うち小和村一一四石余)、竈数五八(うち小和村二二)。
小河内村
こがわちむら
[現在地名]臼杵市福良 西福良・温井、野田 神崎
福良村の西、臼杵川の支流小河内川の下流域左岸に位置する。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に小川内村とあり高一六八石余、村役人は勘九郎・源介。同帳では仁王座村組(野村組とも傍記される)に所属、寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では左津留村組に所属、のち海添組に属した(万用集)。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では田方一〇五石余・畑方六三石余、日損所。正保郷帳には村名はみえず、元禄一四年(一七〇一)の豊後国変地并相改之目録(臼杵藩政史料)には正保国絵図に書漏れた村とある。
小河内村
おごうちむら
[現在地名]河原町小河内
曳田川の支流小河内川中流域に位置し、北東は本角村。本村から六〇町ほど上流にある支村の木地屋新田(現新田)は、元文四年(一七三九)頃高草郡野寺村(現鳥取市)の孫兵衛が開発したという(因幡志)。拝領高二二〇石余、本免六ツ三分。菅氏の給地であった(給人所付帳)。「因幡志」では家数六〇、産物は鼻紙。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二八四石余、竈数五六(うち寺屋敷一)。
小河内村
こごうちむら
[現在地名]清水市小河内
但沼村の北に位置する。興津川支流小河内川の流域を占め、同川に沿って身延道(興津筋)が通る。集落は小河内川や支流中一色川沿いの段丘上に散在し、上組(坂本・丸山・池谷)と下組(加瀬・中一色)に分れる。安貞三年(一二二九)二月一三日の北条泰時御教書写(「諸家文書纂」所収興津文書)に「興津郷内小河内并於嶋内船太郎屋敷」とみえ、親父左衛門入道の譲状に任せて興津虎石に安堵されている。
小河内村
おかわちむら
[現在地名]真玉町黒土 小河内
上黒土村の北東、真玉川上流域、ハジカミ山の南麓に位置する。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二二六石余で、家数五六のうち本百姓・小百姓一七、隠居・名子・庭屋・牛屋三九、人数男四五(うち名子二)・女五九、牛九。正保郷帳では真玉庄に属し、田高一二〇石余・畑高四七石余で、半分日損所、新田有と記す。
小河内村
おがわちむら
[現在地名]佐世保市小川内町・牧の地町
皆瀬村の北に位置し、小川内川支流の妙観寺川が流れる。北方の吉田村(現吉井町)方面に通じる妙観寺峠は同号の寺院があったことに由来するとされ、堂の脇・門前・庵の下・施餓鬼原などの地名が残る。寺跡の墓地に嘉吉三年(一四四三)銘の宝篋印塔など、自然石を用いた墓石や五輪塔が数基ある。北東の菰田を過ぎると江里峠があり、付近の供養塔は永禄六年(一五六三)相神浦の飯盛城の軍勢が平戸松浦氏と交えた合戦にかかわるものとされ、人骨のほか長刀・鏃などが出土したため、寛政一〇年(一七九八)念仏供養したとされる。
小河内村
おごうちむら
[現在地名]箕輪町大字東箕輪 南小河内
北小河内村に対して南小河内村ともいう。天竜川の東岸、一之沢川の北に東の山麓から西に延びた丘陵とその下に広がる平坦部からなり、丘の上から伊那谷を眺望できる。
文献上の初見は「諏方大明神画詞」(神長官本)で「次日内県古宮神事有、同平井弖神事、小河内御とまりあり、次に常土の輪朝神事」とある。
東の丘陵に伊那源氏発祥の地といわれる上の平城跡があり、その北の知久沢には城と関係のあった日輪寺がある。
小河内村
おかうちむら
周参見川の最上流、周参見浦上戸川の谷奥にある農山村。集落は出谷・住木谷・地下の三谷に分れる。東は防己村、南は江住と見老津両浦、西南は和深川村。天福元年(一二三三)九月一二日付為清田畠下人去文(小山文書)に、為清から荘司四郎に譲渡された周参見庄の田畠のうちに「カヽウチ」とみえるのは、当地一帯と考えられる。
小河内村
こごうちむら
[現在地名]静岡市小河内
大井川の最上流部左岸、南流する小河内川が東流してきた大井川と合流する付近に位置し、集落は南に開かれた斜面と河岸段丘上の平地にある。南は田代村。中世は井河に含まれており、天正一〇年(一五八二)一一月一五日に作成された海野元定領年貢帳(海野文書)に「小河内」がみえる。近世には井川郷(井川七郷)の一村。領主は安西外新田と同じ。元禄郷帳では高二一石余。享保一六年(一七三一)の駿府代官村高帳に井川金山附とある。宝暦一一年(一七六一)の村差出帳(海野文書)に「古来より御検地水帳無御座候、金方定納仕来候」とある。
小河内村
おがわうちむら
[現在地名]大東町小河内
南村の東、刈畑川支流の小河内川流域に位置する。元禄十年出雲国郷帳には小川内村とみえ、高二二九石余、寛文四年(一六六四)には本田高二二五石余。「雲陽大数録」によれば高一八〇石。「郡村誌」によると戸数五五(うち社二)・人数二六一、民業は農業二〇戸・工業三戸・炭焼三〇戸、物産は楮三〇〇貫目・生茶一五〇貫目・桐油実五五石・扱苧三六貫目・炭一万四千貫目。川原神社は「出雲国風土記」大原郡にみえる川原社に比定される。「雲陽誌」にも川原社と記す。
小河内村
こがわちむら
[現在地名]八代市日奈久大坪町
敷河内村に北接する海辺の村。元文(一七三六―四一)頃の「肥集録」に日奈久村の小村と記されている。葦北郡田浦手永に属し、「国誌」に「高三十八石四斗余海辺也」とある。宝暦(一七五一―六四)頃の肥後国中寺社御家人名附では日奈久村懸りの村。文久三年(一八六三)夏に痳疹が流行し、患者数一一〇(うち死者六)を数えた(「田浦二見日奈久記録」県立図書館蔵)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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