布川村(読み)ぬのかわむら

日本歴史地名大系 「布川村」の解説

布川村
ぬのかわむら

[現在地名]月舘町布川

下糠田しもぬかだ村の東、最登もうど(六八二・六メートル)の西麓に位置し、北は石田いしだ(現霊山町)。最登山を水源とする最登川と布川が合流して西流し、広瀬ひろせ川に注ぎ、集落はその河川沿いに点在する。大部分は起伏の多い低丘陵で、耕地は少ない。布川沿いを中村城下(現相馬市)に至る街道が通り、わか地内で北行する本道と東行する別道に分れる。地名は往古より狭布を織って売ってきたことによるというが(信達一統志)、諸説がある。「伊達天正日記」のうち天正一七年(一五八九)四月二一日の野臥日記にみえる「川くたり」のうちとされ、せきば・脇内わくのうち・そり平次内へいじうち村石むらいし竹の内たけのうち・こばちうち畠中はたなか高田たかだしもそりたなど当地にあったと推定される在家と野伏名が記載される。


布川村
ふかわむら

[現在地名]利根町布川・八幡台はちまんだい

利根川の東岸から北岸にかけて広大な村域を有し、押付本田おしつけほんでん内宿うちじゆく浜宿はまじゆく中宿なかじゆく馬場ばば上柳宿かみやなぎじゆく・下柳宿・谷原やわら三番割さんばんわりなど多くの小字がある。西の対岸布佐ふさ(現千葉県我孫子市)。古くは相馬御厨のうちで、押戸おしと村などとともに黒崎くろさき郷と称したと考えられ、「符河村」と記された(→押戸村。また戦国期には「府川」と記され、天正一八年(一五九〇)松平(藤井)信一が当村など五千石の地を与えられ(→布川城跡、これ以後、布川と改めた(利根川図志)


布川村
ぬのがわむら

[現在地名]下館市布川

野殿のどの村と船玉ふなたま(現真壁郡関城町)を結ぶ道筋に位置し、北は女方おざかた村。中世せき庄に属したとされ、弘治二年(一五五六)下総結城城主結城政勝が結城町称名しようみよう寺門徒中に与えた掟(「結城政勝書下状」称名寺文書)に「称名寺門徒之事次第不同(中略)布川石山坊(中略)右称名寺門徒中、各被出仕、行事洒掃共ニ可走廻候、自然被此旨候輩、代々自館可申付候也、依状如件、天文廿五(弘治二)年二月十五日 政勝(花押)」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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