柳原村(読み)やなぎはらむら

日本歴史地名大系 「柳原村」の解説

柳原村
やなぎはらむら

[現在地名]下京区小稲荷こいなり町・郷之ごうの町・上之かみの町・下之しもの町・東之ひがしの町・西之にしの町・川端かわばた町・屋形やかた町、東山区一橋いちのはし野本のもと町・みやうち町〉

東は愛宕おたぎ新熊野いまぐまの(現東山区)、西は葛野かどの東塩小路ひがししおこうじ村、北は下京の町地、南は紀伊きい東九条ひがしくじよう(現南区)に接する。平安京の条坊では、鴨川以西現下京区の部分が左京八条四坊一保七町・八町、二保五町・六町、三保と四保の全部の地。柳原町(元禄一三年山城国郷帳・天保郷帳)、また柳原庄(諸式留帳)とも称した。地名由来について、「山城名勝志」は、近世以前柳原家領であったことにちなむとする。「源平盛衰記」巻三五(木曾惜貴女遺事)には「(六条河原より)轡を並べて見渡せば、七条八条の河原、法性寺柳原に、白旗天にひらめきて、東国の武士隙を諍て馳来る」と記し、同書が成立したと思われる鎌倉後期には、柳原という地名が定着していたことをうかがわせる。

平安末には、村域内に蓮華れんげ院という寺院があった(山槐記)。元来は太政大臣藤原実行の邸宅で、永暦元年(一一六〇)に寺院となっている(帝王編年記)

建武三年(一三三六)には、柳原の敷地に関する証文の紛失状が、「迎摂院尼衆」から出されている(東寺百合文書)


柳原村
やなぎはらむら

[現在地名]滑川市柳原・柳原新町やなぎはらしんまち

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇端部付近に位置し、南東は法花寺ほつけじ村、南西は上小泉かみこいずみ村。鎮守の櫟原いちはら神社は「延喜式」神名帳にみえる新川にいかわ郡七座のうちの「櫟原イチハラ神社」の比定社の一つとされ、かつての当地は櫟原村と称していたが、社名を称するのは不敬として柳原と改めたと伝える(北加積村誌稿)。三州寺号帳は神明宮を大宝元年(七〇一)の建立とし、「櫟原ト云。中程柳原ト改、延喜式櫟原神社ト云ハ此神社之事ナリ」と注記する。貞享二年神社由来書上によると、末社の旧跡多数があったとされる。


柳原村
やなぎわらむら

[現在地名]和田山町柳原

和田山村の北東、円山まるやま川支流の東河とが川が本流に合流する地に立地する。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高二四三石余。幕府領として推移したと考えられる。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙および天明八年(一七八八)の高村附邑名控では高二七三石余。元文三年(一七三八)の生野一揆では朝来郡東河庄の当村庄屋九郎右衛門が江戸・京・大坂・但馬国中追放に処されている(「朝来郡村々百姓強訴一件」生野書院蔵)


柳原村
やなぎはらむら

[現在地名]足立区柳原一―二丁目など

古綾瀬ふるあやせ川右岸に位置し、葛飾郡に属する。東は同郡小菅こすげ村・小谷野こやの(現葛飾区)、南は古隅田ふるすみだ川を挟み足立郡千住宿三丁目、西は同川を挟み足立郡弥五郎やごろう新田、北は小菅村。「やなぎわら」ともいう。田園簿には小谷野柳原村として田二二四石余・畑七三石余。元禄郷帳に柳原村がみえ、高一八九石余。「風土記稿」によれば小谷野村との分立は元禄検地の頃という。家数三二。村周囲を古隅田川の堤が囲み、京極きようごく橋・牛田うしだ橋が架かっていた。


柳原村
やなぎはらむら

[現在地名]御所市大字柳原

忍海おしみ(大部分は現北葛城郡新庄町)に属し、御所町東北方の平地の村。

笛吹ふえふき神社(現新庄町)旧蔵大般若経に「柳原郷 勧進大般若経毎日一帙 永仁二年甲子正月ヨリ始行持読 僧重円」の奥書があり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「柳原庄 忍海郡寺門反畝八反」とみえる。慶長郷帳では福島兵部領、村高一六七七・七三二石。


柳原村
やないばらむら

[現在地名]大台町柳原

千代せんだい村の南西、宮川の左岸にあり、村の中央を熊野街道が通る。天文二三年(一五五四)七月四日の旦那売券写(米良文書)に「やないはら」とある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「柳原村」と記されている。開発の史料として宝永六年(一七〇九)新田畑地詰検地帳(同蔵)が伝わる。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数三九、人数二〇一。


柳原村
やなぎはらむら

[現在地名]鳥越村柳原

相滝あいだけ村の南西、大日だいにち川の支流どう川左岸の山間部に位置する。正保郷帳に村名がみえ高一二六石余、田方四町・畑方三町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一二九石、免三ツ六歩、小物成は山役一一五匁・炭役四二匁(三箇国高物成帳)


柳原村
やなぎはらむら

[現在地名]小矢部市柳原

地崎じさき村の南西、芹川せりかわ村の東、小矢部川右岸平地に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数三、道明村組に属する。正保郷帳では高一六六石余、田方一一町余・畑方一反。


柳原村
やなぎはらむら

[現在地名]市原市柳原

宮原みやばら村の北、養老ようろう川左岸をおもな村域とする。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえるが、高六〇七石とするのは六七石余の誤記と思われる。


柳原村
やなぎはらむら

[現在地名]下妻市柳原

小貝こかい川右岸にあり、西は谷田部やたべ山尻やまじり両村。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は四三二石余。幕末は天領七二石余、旗本榊原・佐橋・岩瀬・高城・蜷川各氏領各七二石余、ほかに新田四斗余があり、天領であった(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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