日本の城がわかる事典 「平瀬城」の解説 ひらせじょう【平瀬城】 長野県松本市の島内地区にあった山城(やまじろ)。戦国大名で信濃守護の小笠原氏の家臣平瀬氏(犬甘(いぬかい)氏の一族)の居城。奈良井川と梓川が合流して犀川と名前を変える合流点近くの標高716m前後、比高約140mの山頂に本城が、その南の標高約650mの山頂に支城があった。それぞれ、北本城、南支城ともよばれている。この城は平瀬氏によって、小笠原氏の本城である林城の築城と前後して築かれたのではないかともいわれているが、築城年代・築城者は明らかではない。平瀬氏はのちに信濃守護として入国した府中小笠原氏の配下となった。その後、平瀬城は平瀬氏の居城として、犬甘城(同市)とともに、小笠原氏の本城の林城の北方を守る城として機能した。1550年(天文19)、甲斐の武田晴信(武田信玄)は、対立していた信濃守護の小笠原長時への攻勢を開始し府中(現松本市)に進撃すると、村井城を前線拠点としてイヌイの城(埴原城とも推定されている)を攻略し、その後、小笠原氏の本城(林城と井川館)をはじめ、属城の深志城(のちの松本城)、岡田城、桐原城、山家城を次々と陥落させた。このとき、長時は林城から平瀬城に逃れたのち、北信濃の村上義清を頼って落ち延びたが、平瀬城は犬甘城とともに小笠原方の城として踏みとどまった。同年秋、信玄が戸石(砥石)城の合戦で村上義清に大敗すると(戸石崩れ)、義清のもとに身を寄せていた長時は再び平瀬城に入り、武田氏に対する小笠原氏の抵抗の拠点となった。しかし、1552年(天文21)、平瀬城は武田氏に攻められて落城。城主の平瀬義兼は自刃した。信玄は平瀬城を改修して原虎胤に守らせたが、筑摩・安曇を平定して支配を確立すると、その支配の拠点を深志城に一本化したため、平瀬城は1553年(天文22)に破却処分となった。北本城、南支城とも保存状態は良好で、北本城には多数の帯曲輪(おびぐるわ)、堀切、虎口、武者走り、馬出、主郭・二の郭の土塁や石垣の一部などが残る。また、城跡からは焼米、石臼、内耳土器などの破片が出土した。南支城跡にも主郭の土塁や虎口、その前面の二の郭跡、南の尾根や東西斜面の堀切跡などが残る。JR篠ノ井線田沢駅から徒歩30分、国道19号沿いの平瀬城跡入り口から徒歩。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報