改訂新版 世界大百科事典 「幾何原本」の意味・わかりやすい解説
幾何原本 (きかげんぽん)
Jǐ hé yuán běn
前300年ごろのギリシア数学者ユークリッドが著した幾何学書《ストイケイア》(はじめ13巻,後に15巻に増補)の中国訳名。〈幾何〉とは中国語で量的な問いを意味する疑問詞である。明末にイエズス会士マテオ・リッチ(漢名,利瑪竇)が来朝し,その指導により徐光啓が1606年(万暦34)にその前半6巻を漢訳した。後半の9巻は,清末の1856年(咸豊6)にイギリス人宣教師ワイリーAlexander Wylie(漢名,偉烈亜力)が李善蘭の協力を得て訳出した。従来の中国数学になかった論証的幾何学を中国に紹介するのがリッチのそもそもの意図であったが,この訳書のまえがきでは,中国数学に欠けていた,科学的思考にとって重要な論証の方法や演繹法について,リッチは一言も語ろうとはしていない。中国人のものの考え方にあった社会的実用性をもっぱら力説するのみである。このことは,〈幾何〉という訳名に端的に表現されているように,演繹,論証の基礎学である幾何学を,量化,代数化になじんできた中国的思考にうまく適合させようとするリッチの巧妙な苦心の表れである。とはいえ本文の翻訳はきわめて正確であった。しかし,当時の西洋科学に理解を示した康熙帝をはじめとして,前近代の中国の科学者,思想家たちは,《幾何原本》を通して幾何学的思考を獲得し,演繹,論証の基礎科学を確立することはついになかった。
執筆者:藪内 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報