マテオ・リッチ(読み)まておりっち(英語表記)Matteo Ricci

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マテオ・リッチ」の意味・わかりやすい解説

マテオ・リッチ
まておりっち
Matteo Ricci
(1552―1610)

イタリア、マチェラータ生まれのイエズス会士。中国名は利瑪竇(りまとう)。1571年イエズス会入会、翌1572年コレージオ・ロマーノに入学、クラビウスに数学、天文学、地理学などを学んだ。バリニャーノ(中国名范礼安(はんれいあん))によばれて1582年マカオに来航。翌1583年、肇慶(ちょうけい)への定住を許され、カトリック布教を始めた。この地の経緯度を測定し、さらに中国を含めた最初の世界図『万国輿図(ばんこくよず)』を描き、これは肇慶知府(知事)王泮(おうはん)により1584年出版された。韶(しょう)州、南昌(なんしょう)、南京(ナンキン)を経て、1601年北京(ペキン)に入り、明(みん)の神宗(万暦帝)に自鳴鐘、西洋琴などを献じて北京定住を許された。瞿太素(ぐたいそ)(1549―1612)、李之藻(りしそう)、徐光啓(じょこうけい)ら知識人、官界人の改宗者を得て伝道は進展し、彼らの協力で西洋科学技術書はじめ多くの書を翻訳、著述した。『ストイケイア』(クラビウス版)の初めの6巻を訳した『幾何原本』、近代三角法の書『測量法義』、同心天球説を紹介した『乾坤(けんこん)体義』、キリスト教教義を説いた『天主実義』などがあり、李之藻の手により1602年に刊行された『坤輿(こんよ)万国全図』は有名。西洋科学を紹介して知識階級尊敬を得ること、また、中国人が儒教に従って祖先を祀(まつ)ることを宗教ではなく習俗とみなし、それを尊重すること、という二つの方針が、その布教を成功させた。

[宮島一彦 2018年2月16日]

『陳舜臣他編『人物中国の歴史8 落日の大帝国』(1982・集英社/集英社文庫)』『平川祐弘著『マッテオ・リッチ伝』全3巻(平凡社・東洋文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マテオ・リッチ」の意味・わかりやすい解説

マテオ・リッチ
Matteo Ricci

[生]1552.10.6. マチェラタ
[没]万暦38(1610).5.11. 北京
イタリアのイエズス会士。カトリック布教の最初の中国伝道者。中国名は利瑪竇 (りまとう) 。 1571年イエズス会に入会。東方布教を志して 78年ゴアに,82年マカオに到着,翌年両広総督の許しを得て広東の肇慶に定住。万暦 17 (1589) 年韶州に移って布教に努め,同 26年入京したが,京師に長く滞在することを許されず,同 27年以後は南京に住んだ。万暦帝に自鳴鐘,西洋琴などを献上し,同 29年には京師の定住と会堂の建設を許され,西洋学術書の翻訳とともに信者の指導に尽した。信者には徐光啓李之藻などの官僚読書人があり,著書には『天主実義』『交友論』の漢文著述のほか,信者の協力を得てユークリッド幾何学を訳した『幾何原本』,中国最初の世界地図として有名な『坤輿万国全図』などがある。

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