翻訳|geometry
一般に,幾何学とは図形に関する数学であると説明されているが,幾何学の対象,内容,方法は時代とともに著しく変遷し,その範囲も非常に拡大され,現在ではこれらをすべて含むように幾何学を定義することはできない。しかしながら,幾何学と名のつく数学では,図形の直観,またはその類似に依存して研究される度合が強い。なお,geometryはギリシア語の〈土地を測る〉を意味するgeōmetriaに由来し,幾何は中国語で量的な問いを意味する疑問詞で,中国からの伝来語である。以下に,歴史的変遷を追いながら,いろいろな幾何学を概観しよう。
幾何学の語源が示すように,幾何学は測量術から発達した。すなわち,古代エジプトでは,ナイル川のはんらんによって壊れた土地の境界を再現するために測量術が発達し,これによって図形に関する知識が集積されたが,これらはミレトスのタレスやピタゴラスらによってギリシアにもたらされ,合理的に研究されて幾何学に発達した。タレスは三角形が2角とそれらのはさむ辺によって定まることを利用して間接測量することを知っており,三平方の定理を証明したと伝えられるピタゴラス学派では,図形に関する知識を証明によって基礎づけることを行った。証明の方法や論理はさらにプラトンとその学派によって深い省察が加えられて洗練され,定義,公準,公理の思想が展開された。プラトンがその学園アカデメイアの入口に,〈幾何学を知らざるものは入るを許さず〉と大書したという伝説は,彼がいかに幾何学を重視したかを物語っている。このようにして,論理体系としての幾何学が形成されたが,これはユークリッドによって《ストイケイア》として編まれて後世に残された。全13巻からなるこの書物は,整数論や無理数の理論も含むが,幾何学が主体である。現在われわれが初等幾何学と呼んでいるのはこの幾何部分を継承し敷衍(ふえん)したものである。《ストイケイア》は西洋の科学の発展におおいに寄与したが,この理由は内容よりもむしろ叙述の方法,態度によるといえる。《ストイケイア》は定義,公準,公理を前提として,そのあとは直観によらずもっぱら論証によって結果を導くという方式で記述されている。この方式は科学のあるべき姿を明示したものとして,後世には学問体系の模範とされ,例えばB.deスピノザの《エチカ》(完成1675)や,I.ニュートンの《プリンキピア》(1687)もこの方式で書かれた。また,定義や公準は後世しばしばきびしい批判を受けながらも,なお,新しい数学を誕生させる源となった。
ギリシアの幾何学はユークリッドのものだけではない。調和のある合理的な美を理想としたピタゴラスやプラトンは,直線と円,すなわち定規とコンパスだけの使用による作図を幾何学的とし,放物線などの曲線を用いる作図を排斥した。幾何学的作図によって,〈角を3等分すること,立方体の2倍の体積をもつ立方体をつくること,円と同じ面積をもつ正方形をつくることが可能か〉という問題は,ユークリッドよりかなり古い時代から熱心に研究された。しかしながら,ついに解決をみず,ギリシア数学の三大問題として後世に残された(作図不能問題)。円の面積や球の体積については,ユークリッドは,それらは直径の平方,または立方に比例することだけを述べ,比例定数,すなわちπ/4やπ/6には言及していない。これに対し,アルキメデスは〈しぼり出し法〉という方法を案出して円の面積や球の体積を正しく計算し,また,円に内接,または外接する正九十六角形の周を求めることによって3.14がπの小数点以下第2位までの精確な値であることを証明した。放物線はアルキメデスによっても扱われたが,ペルゲのアポロニオスは,円錐面を平面で切ったときの切口として得られる円錐曲線として,楕円,双曲線,放物線を統一的に扱い,《円錐曲線論》全8巻を編んで,これらの曲線の性質を明らかにした。天文学の影響を受けて,前150年ころにはヒッパルコスによって平面三角法および球面三角法がつくられ,前100年ころにはその発展に,三角形の面積の公式で有名なヘロンや,初等幾何学の定理に名の現れるメネラウスやプトレマイオス(トレミー)らが寄与した。
ユークリッドの幾何学はきわめて整然とした論理体系であるが,それはあくまで証明の科学であって発見のための科学とはいえない。また,その証明技術には統一的方法はなく,個々の場合についてそれぞれのくふうを必要とする。ユークリッドがプトレマイオス1世に〈ストイケイアよりももっと手っとり早い方法はないか〉と尋ねられて,〈幾何学に王道はありません〉と答えたという伝説もこの事情を物語っているといえよう。ルネサンス期のヨーロッパでは,ギリシアの数学が復活されるとともに,インドやアラビアに起こった代数も移入された。そして17世紀初頭には文字を用いる一般式としての記号法もほぼ確立されて代数学といえるものとなり,低次の方程式も解かれていた。ユークリッドの方法とは反対に,方程式を用いて問題を解く代数学の方法は発見的,機械的,かつ統一的である。未知のものを求めるのに,それを既知のものと総合して方程式として表し,これを計算によって単純なものに還元すればよいのである。P.deフェルマーやR.デカルトは,座標の導入によって図形を数の間の関係式によって表せば,幾何学は代数化し,代数学の方法により幾何学が研究できるという,いわゆる解析幾何学の着想を得た。とくにデカルトはこの考えを彼の有名な著書《方法叙説》(1637)の付録の一つである《幾何学》において述べ,この方法は幾何学に発見性と統一性を与えることを強調した。解析幾何学は微積分学の発展に有力な基盤を与え,18世紀にはL.オイラーらによって著しく進展し,アポロニオスの円錐曲線論も二次曲線論として代数的に整理された。解析幾何学によって,数と図形とは本質的に別物ではなく,一方は他方の表現であるとの認識が得られた。この認識は後世の数学の発展に大きな影響を及ぼした。解析幾何学に対し,ユークリッド流に図形を直接考察する幾何学を総合幾何学,または純粋幾何学という。
ルネサンス期のレオナルド・ダ・ビンチやA.デューラーのような芸術家たちによって始められた透視図法(遠近法)は,その後も技術的立場から研究され,17世紀には幾何学のこの方法による研究がG.デザルグやB.パスカルによって始められた。透視図法は空間の図形を1定点から射影して平面上に投影し,この投影図によって原図形を表現するという方法で,まさに写真による表現法である。射影によって点は点にうつり,直線は直線にうつるが,線分の長さや角の大きさなどの計量はそれによって変わり,平行という性質も壊れる。それにもかかわらず,投影図に原図形の幾何学的構造を認めることができるのがふつうである。このことは射影的性質,すなわち射影という操作によって不変な幾何学的性質が存在することに起因すると考えられよう。射影的性質のもっとも簡単な例として,共線(いくつかの点が1直線上にある)とか共点(いくつかの直線が1点で交わる)といった点と直線の結合に関する性質がある。ただし,交わっている2直線でも射影によって平行線となりうるから,平行な2直線は無限遠点で交わると読みかえる必要がある。デザルグやパスカルは,無限遠点やそれらの集りである無限遠直線を考えれば,ギリシア人が個々別々に陳述し証明した事柄が,統一的,かつ普遍的に得られることをいろいろな例によって示した。これらの中に,〈二つの三角形の対応する3頂点を結ぶ直線が1点で交われば,対応する辺の交点は1直線上にあり,この逆も成り立つ〉というデザルグの定理や,〈円錐曲線に内接する六角形の相対する辺,またはその延長の交点は1直線上にある〉というパスカルの定理がある。デザルグやパスカル以後は,解析幾何学や微積分学の華々しい進展の陰に隠れて,射影的方法による幾何学の研究は忘れられていたが,18世紀末にG.モンジュによって透視図法が復活されたのをきっかけとして,19世紀前半には射影的方法による幾何学の組織的研究が行われ,射影幾何学と呼ばれる数学の一分科が成立した。その基礎は,非調和比が射影的性質であることや,射影幾何学の双対性を見いだしたJ.V.ポンスレによって築かれた。これを継承して,シュタイナーJ.Steiner(1796-1863)は二次曲線や二次曲面も射影的に扱えることを示し,A.F.メービウスやJ.プリュッカーは座標を導入して射影幾何学を解析幾何学として建設し,またシュタウトK.G.C.von Staudt(1798-1867)はデザルグの定理を基としてそれを総合幾何学として建設した。
ユークリッドがあげた5個の公準のうち,第5番目のものは〈1直線が2直線と交わり,同じ側の内角の和が2直角より小ならば,2直線は限りなく延長するとその側で交わる〉と述べられている。この公準は他の公準に比べてすこぶる複雑で,その自明性に疑いがもたれた。このため,第5公準は他の公準から証明できる定理ではないかと考えられ,4世紀のプロクロスProklos(410か411-485)以来その証明が執拗に試みられた。この間に第5公準は〈直線外の1点を通ってその直線に平行な直線はただ1本である〉とか〈三角形の内角の和は2直角である〉という命題に同値であることがわかったが,本来の目的は達せられなかった。これらのうち,とくに注目すべきものに,背理法によって証明しようとして,第5公準が成立しないとの仮定に立って,それに伴う種々の結果を導き出したサッケリG.Saccheri(1667-1733)やA.M.ルジャンドルの研究がある。しかしユークリッド幾何学の先験性を信ずるあまり,彼らは第5公準を否定しうる命題とは考えることができなかった。第5公準を大胆にも否定して,それを〈直線外の1点を通りその直線に平行な直線は少なくとも2本ある〉という公準におきかえた幾何学を構成したのはN.I.ロバチェフスキーとボーヤイ J.で,それは1830年ころのことであった。当時の数学界の帝王C.F.ガウスもこのような幾何学の存在を信じ,それを非ユークリッド幾何学と呼んだが,騒々しい非難を恐れて未発表にしたことが後年になってわかった。しかしながら,これらの人たちは非ユークリッド幾何学を展開しただけで,その無矛盾性を証明したわけではなかった。このため,ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の両方がともに成り立つことがありうるだろうかとの疑問がもたれたが,これは19世紀末から20世紀の初めにF.クラインらによって解決された。すなわち彼らはユークリッド幾何学の中に非ユークリッド幾何学の模型をつくり,ユークリッド幾何学が矛盾を含まぬかぎり,非ユークリッド幾何学も矛盾を含まない論理体系であることを示した。なお,B.リーマンは1854年に,直線の長さは有限で,2直線はつねに2点で交わるような幾何学を構成し,クラインはこれを少しく変更して2直線はつねに1点で交わるという幾何学を構成した。この非ユークリッド幾何学を楕円幾何学と呼ぶのに対し,先に述べた非ユークリッド幾何学を双曲幾何学と呼ぶ。三角形の内角の和は楕円幾何学では2直角より大きく,双曲幾何学では2直角より小さい。また,非ユークリッド幾何学では三角形の面積は3頂角の大きさによって定まり,したがって相似三角形は合同となる。
直交座標を用いれば,平面上の点は2個の実数の組で表され,座標が(x1,x2),(y1,y2)である2点間の距離はで与えられる。同様に,空間の点は3個の実数の組で表され,座標が(x1,x2,x3),(y1,y2,y3)である2点間の距離は で与えられる。これを解析的に一般化しn個の実数の組(x1,x2,……,xn)を点として,2点(x1,x2,……,xn),(y1,y2,……,yn)の間の距離がで与えられるn次元ユークリッド空間が,19世紀中期よりH.G.グラスマンらによって考えられるようになった。これにともなって,平面幾何学や立体幾何学がn次元ユークリッド幾何学に解析的に一般化され,また,射影幾何学や非ユークリッド幾何学もn次元の場合へ一般化された。上に述べたように,19世紀の中葉にはいろいろの幾何学が存在していたが,クラインは1872年にこれらを群の立場から統一的に論じた。これが有名なエルランゲン・プログラムと呼ばれるものである。彼はそこで,各幾何学は一つの点集合である空間Sとその上の変換群Gによって定まり,その幾何学で研究されるのはSにおける図形の性質でGに属する各変換で不変なものであるとした。これによれば,例えば,ユークリッド幾何学はユークリッド空間と合同変換(ユークリッド空間のそれ自身の上への1対1対応で任意の2点間の距離を変えないもの)のつくる群で定まり,合同変換で不変な長さや面積などを研究する幾何学となる。また,射影幾何学は射影空間(無限遠点も含めた空間)と射影変換(射影空間のそれ自身の上への1対1対応で直線を直線にうつすもの)のつくる群で定まり,射影変換で不変な結合性質や非調和化などを研究する幾何学となる。さらに,双曲幾何学は射影空間内のある二次曲面Qの内部のみを空間とみて,Qを不変にするような射影変換のつくる群を考えれば,これに対応する幾何学として規定でき,Qとしてある虚の二次曲面を考えることにより楕円幾何学も同様に規定できる。エルランゲン・プログラムは幾何学研究の指導原理として,発表後約50年の間幾何学界をふうびし,幾何学の発展に大きな貢献をした。19世紀後半には,また,長年にわたって完全な論理体系とみなされてきたユークリッドの《ストイケイア》にも多くの論理的欠陥があることが指摘された。例えば,パッシュM.Pasch(1843-1930)は,〈一つの直線が三角形の内部に入っていけば,それは再び外へ出る〉という公準が必要であることを発見した。このため,ユークリッドの公準を補ってユークリッド幾何学の論理的に完全な公理系を与える研究が行われ,D.ヒルベルトの著書《幾何学の基礎》(1899,1版。1930,7版)においてその完成をみた。
微分学は平面曲線に接線をひく方法に関するフェルマーの研究を発端として誕生したことが示すように,微分学は曲線の研究と密接な関係にあり,17世紀末葉の微積分学の成立以来,微分学の応用による曲線の研究が微分学の一部として発達した。そして,平面曲線の曲率,接触円,縮閉線,包絡線などが研究されたが,これらの研究は空間曲線に対する類似の研究へ導き,さらに曲面の曲率や測地線などの研究が18世紀にヨハン・ベルヌーイ(1667-1748),オイラー,J.L.ラグランジュ,モンジュらによって微積分学の応用として行われた。このようにして,微積分学を用いて曲線や曲面の性質を研究する微分幾何学が始まったが,19世紀の初めに,ガウスが曲面論の基礎を確立し,曲面上の幾何学を展開するに及んで,数学の一分科としての微分幾何学が成立した。この後,19世紀にはボネO.Bonnet(1819-92),ベルトラミE.Beltrami(1835-1900),M.S.リー,J.G.ダルブーらによって,ユークリッド空間における曲線や曲面についての多くの興味ある結果が見いだされた。20世紀に入ると,クラインの思想の影響を受けて,射影空間の曲線や曲面の射影変換で不変な性質を微分学を用いて研究する射影微分幾何学がフビニG.Fubiniらによって研究され,その他のいろいろな空間に対しても同様の微分幾何学がブラシュケW.Blaschke(1885-1962)らによって研究された。
媒介変数u,vを用いて表された曲面上の無限に近い2点,すなわち(u,v)と(u+du,v+dv)に対応する曲面上の2点間の距離dsは,ds2=Edu2+2Fdudv+Gdv2という形で与えられる。ここにE,F,Gはu,vに関して連続的微分可能なある関数である。ガウスはこのE,F,Gのみから定まる量や性質は媒介変数表示や曲面の三次元空間内の位置に依存せず,曲面自身の内的性質であることを見いだし,曲面上の幾何学を展開した。リーマンはこれに示唆を得てそれを一般化し,n個の実数の組(x1,x2,……,xn)を点とし,無限に近い2点(x1,x2,……,xn)と(x1+dx1,x2+dx2,……,xn+dxn)の間の距離dsが次式で与えられる空間を考え,そのうえに構成される幾何学を提唱した。ここにgij(1≦i≦n,1≦j≦n)はx1,x2,……,xnに関して連続的微分可能な関数で,gij=gjiを満たし,(x1,x2,……,xn)≠(0,0,……,0)ならば,つねにΣgijxixj>0となるもので,このようなものならばなんであってもよい。この考えは1854年のゲッティンゲン大学講師就職講演において,〈幾何学の基礎にある仮説について〉と題して述べられたもので,この幾何学をリーマン幾何学と呼ぶ。リーマン幾何学はユークリッド幾何学,非ユークリッド幾何学のほか,{ gij }のとり方によって無限に多くの幾何学を含み,その思想は空間概念や幾何学の思想に大きな変革をもたらした。リーマン以後,リーマン幾何学はクリストッフェルE.B.Christoffel(1829-1900),リッチC.G.Ricci(1853-1925)らによって二次微分形式の不変式論として研究されたが,1916年,A.アインシュタインによって一般相対性理論に用いられて一躍注目を集めることとなった。そのころ,レビ・チビタT.Levi-Civita(1873-1941)は平行移動性の概念を導入し,20年ころE.カルタンはそれを接続の概念に発展させたことにより,リーマン幾何学に幾何学的色彩が加わった。なお,リーマン空間では長さを不変にする変換は一般に恒等変換しかないから,リーマン幾何学はクラインの意味での幾何学とはいえず,リーマン幾何学の発展はエルランゲン・プログラムの思想に破綻(はたん)を生ぜしめた。
先に,ユークリッド幾何学,射影幾何学では,それぞれ合同変換,射影変換によって変わらないような幾何学的性質が研究されると述べたが,合同変換や射影変換よりはるかに一般的なものに位相変換または同相写像と呼ばれるものがある。これは二つの図形の間の1対1対応で,それおよびその逆写像が連続となるようなものである。そこで,同相写像によって変わらないような性質を研究する幾何学というものが考えられる。トポロジーtopologyはこのような研究を主目的とする数学であって,位相幾何学と訳されているように,この幾何学では図形の位置や形相に関した性質で,点の連続性にのみ依存する性質が扱われる。位相幾何学は位置解析学analysis situsという名称でG.W.ライプニッツによって予見されていたが,具体的な業績はオイラーによって初めて与えられた。〈ケーニヒスベルクの街にある七つの橋をどれも一度ずつ重複なく渡って元の位置に戻れるか〉という問題に関連して行われた一筆書きの研究(1736)および〈球面と同相な凸多面体の頂点,辺,面の個数をそれぞれα0,α1,α2とするとき,α0-α1+α2はつねに2である〉という定理(1752)がそれである。オイラー以後は,空間にある二つの閉曲線のまつわり数に関するガウスの研究(1853)が現れるまで位相幾何学の業績はない。ガウスの影響で曲面の位相幾何学の研究が活発となり,メービウス,リーマンらによって曲面のつながり方の研究がなされ,向きのつけられない曲面として有名なメービウスの帯が発見され(1857),また関数論で重要な役割をなすリーマン面の概念が得られた(1851)。トポロジーということばも,リスティングJ.B.Listing(1808-82)が1847年に書いた小冊子の表題として初めて文献に現れた。曲面はこれらの人たちに続いて,C.ジョルダン,シュレーフリL.Schläfli(1814-95),ディックW.F.A.von Dyck(1856-1934)らによっても研究され,19世紀末葉には閉曲面の同相による分類が完成した。曲線については,〈自分自身と交わらない閉曲線が平面上にあるとき,それは平面を内と外の二つの領域に分かつ〉というジョルダンの定理が証明され(1893),また正方形の内部をうめつくす連続曲線がG.ペアノによって発見されて(1890),曲線や次元の定義が問題となった。リーマンは前記の講演において,n次元多様体の概念を導入して空間の概念を拡張し,その幾何学を考えることを提唱したが,ベッチE.Betti(1823-92)はその考えに沿って多様体の高次元連結度を表す位相的不変量としてのベッチ数の概念を得た(1870)。このような先駆的業績の後,位相幾何学の基礎がH.ポアンカレによって築かれた。彼はn次元多様体を明確に定義して,それは各点の近傍がn次元ユークリッド空間と同相な点集合であるとし,多様体は多面体,すなわち単体とか胞体と呼ばれる初等的図形をある一定の方法で連接させてできる図形,として組合せ的に取り扱うのが便利であるとした。そして多面体に対してホモロジー群や基本群を定義して,多様体のトポロジーを研究した(1895)。図形の連続性を研究するのに代数学における群論を利用するという考えはまことに画期的で,ここに位相幾何学は有力な研究法を得た。この方法は,L.E.J.ブローエルに続いて,1920年代にはベブレンO.Veblen(1880-1960),アレクサンダーJ.W.Alexander,S.レフシェッツらによって受け継がれ,厳密化されるとともに一般化された。さらに,この過程を通じて,不動点定理などが得られて,数学のほとんど全分野に対する位相幾何学の重要性が認識された。ポアンカレとともにトポロジーの形成に大きな貢献をしたのは集合論の創始者G.カントルである。彼はn次元ユークリッド空間の一般の点集合に対して,集積点,開集合,閉集合などの位相的概念を導入し,点集合論,すなわちユークリッド空間の位相の理論を創始した(1879-84)。20世紀に入って,点集合論はM.フレッシェによって距離空間論に一般化され(1906),さらに20年代にはF.ハウスドルフらによって位相空間論に一般化された。これによって,極限や連続の理論が抽象空間の上で展開されるようになり,これに伴って曲線,次元,ホモロジー群などが位相空間に対して定義され,それらの本質が明らかになった。とくに,ホモロジー群は同相写像よりもっと広いホモトピー同値と呼ばれる必ずしも1対1対応ではない写像によっても不変であることがわかり,ホモトピーについての研究が活発となった。基本群を一般化したホモトピー群がフレビッチW.Hurewicz(1904-56)によって導入され(1935),これを武器にホモトピーについての研究が進められ,その成果は数学におけるいろいろな問題の解決に寄与した。
多様体の研究はポアンカレ以降,ホモロジー的性質や三次元多様体の研究を除いてはほとんど進展しなかった。しかし微分可能多様体の概念が確立し,ファイバーバンドルの概念が導入された1940年以降は,ホモロジーやホモトピーの理論の応用によって多様体の研究が進展した。とくに50年代の後半には多様体についての多くの重要な問題が続々と解決された。しかしながら,三次元と四次元の多様体の問題は意外にも高次元のものよりむずかしく,〈三次元閉多様体M上のどんな閉曲線もM上で1点に縮むならば,Mは三次元球面と同相になるだろう〉という有名なポアンカレの予想も未解決である。微分幾何学は微分学を主要な手段として発達したために,研究対象は空間の局所的性質に関するものが大部分であったが,現代は図形全体としての性質に関心が払われるようになり,微分幾何学も多様体のうえで展開されている。そこでは二次微分形式,複素構造,接続のような構造の与えられた微分可能多様体の理論が研究され,とくに微分幾何学的性質と位相幾何学的性質との関連を調べる研究が主潮になっている。なお,二次曲線や二次曲面を一般化して,高次元空間においていくつかの代数方程式の共通解の集合を代数多様体と呼び,これを研究する数学を代数幾何学と呼ぶが,これはおもに代数学を手段として用いるので,代数学の分野に属する。現在では,多くの数学が多様体を舞台として展開されていて,幾何学は数学全般に浸透し,代数学や解析学と有機的に関連して発展している。
執筆者:中岡 稔
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数学は代数学、幾何学および解析学に大別されるが、そのなかでも幾何学はもっとも古くから発達した学問で、図形の研究を目的とする。
[立花俊一]
古代エジプトではナイル川が定期的に氾濫(はんらん)し、奥地の肥えた土を下流に運んでそこを肥沃(ひよく)にする一方、耕地の境界を破壊した。洪水のあとの土地を再配分するために土地測量術が発達したが、これが幾何学の始まりといわれている。幾何学を意味するギリシア語のgeōmetríaがgeō(土地)とmetron(測量具)とからなっているのはこのためである。エジプトで生まれた幾何学は海を渡ってギリシアに輸入され、抽象的な思考に秀でていたギリシア人の手によって、しだいに理論的体系をもつ学問に成長していった。ピタゴラス(前500ころ)、ユークリッド(前300ころ)、アルキメデス(前250ころ)、アポロニウス(前230ころ)らが活躍したが、なかでも、それまでの幾何学の知識を集大成して一つの論理体系にまとめあげたのがユークリッドであった。13巻からなるユークリッドの『幾何学原本』(『ストイケイア』)は、定義と五つの公理をもとに厳密な推論を積み上げる方法をとっている。『原本』から発達した幾何学は今日ユークリッド幾何学とよばれ、現在でももっとも応用の広い数学の部門であり、またその厳密な論証の進め方は以後の数学の模範となった。
[立花俊一]
その後、幾何学の暗黒時代を迎えるが、ルネサンス期イタリアで開花した造形美術は幾何学と深くかかわっている。遠近関係を配慮した絵画の描出法である遠近法、すなわち透視画法がそうである。フランスのデザルグやパスカルは、この透視画法の考え方を発展させて、射影と切断で不変な性質を研究する幾何学、すなわち射影幾何学を創始した。これは、19世紀前半のポンスレやメビウスの総合的な研究によって、当時の幾何学界を風靡(ふうび)することになる。なお、製図などに用いられる画法幾何学はフランス人モンジュが始めたもので、19世紀末には現在の形をなすに至る。他方、代数学を使って図形を研究する道が開けてきた。それは、16世紀における座標の導入である。点を座標で表し、点と点の関係を実数の関数関係に置き直して図形を研究する解析幾何学は、デカルト、フェルマーに始まる。解析幾何学の方法論は、17世紀になってニュートン、ライプニッツの微積分の発見を促しただけでなく、逆に微積分を図形の研究手段として利用することを可能にし、微分幾何学へとつながる。とくに、ガウスは曲面上の微分幾何学で本質的な貢献をし、この仕事がリーマンによるn次元多様体の概念を生み出した。多様体の幾何学は、のちにリーマン幾何学とよばれる分野を含む広大な幾何学に発展していく。
[立花俊一]
一方、ユークリッドの『原本』の第五公理、いわゆる平行線公理「1直線外の1点を通ってちょうど1本の平行線が、存在する」が、他の四つの公理から本当に独立であろうかという疑いを多くの人が抱いていた。これは、1830年前後の非ユークリッド幾何学の発見・創始という意外な結末にたどり着いた。つまり、第五公理を「1直線外の1点を通って少なくとも2本の平行線が存在する」に置き換えても、矛盾のない幾何学の体系ができることを示したのである。それはロバチェフスキーとボヤイによりそれぞれ独立に発見され、現在、双曲幾何学とよばれている。古来、幾何学は一つと信じられていたのに、非ユークリッド幾何学や射影幾何学が出現したことは、幾何学に対する反省を大きく促すことになった。クラインはエルランゲン目録(1872)において、幾何学が多数存在しうる理由を明らかにした。彼は、集合(空間)とその変換の群が与えられたときに、部分集合(図形)の性質のうち群の作用で不変なものを研究することこそが幾何学であると認識した。たとえば、計量のある平面と等長変換群を与えられたときの幾何学が、ユークリッド幾何学にほかならない。すると、出発点の変換群をその部分群に置き換えるとまた別の幾何学が得られることになる。したがって、部分群をさまざまに変えることに対応して多数の幾何学が得られることにもなる。射影空間内に一つ図形(直線や二次曲線)を固定し、射影変換のうちでその図形を不変にするものがつくる群を考えると、ユークリッド幾何学や非ユークリッド幾何学を統一的に論ずることができる。以上述べてきた幾何学は、その源をユークリッドの『原本』やアポロニウスによる円錐(えんすい)曲線論などのギリシア数学に求めることができる。
[立花俊一]
これらとはまったく別の幾何学の流れが18世紀のオイラーから発する。オイラーが解いた一筆書きの問題や閉多面体に関するオイラーの公式は、図形の連続的変形によって変わらない性質を研究したものである。19世紀、ポアンカレはこのような研究が解析学にとっても重要であることを認めて、これを基礎づけた。これは位相幾何学(トポロジー)とよばれるようになった。位相幾何学は、複雑な図形を基本的な図形から積み木のように構成されたものとして研究したり、対象の間の関係を群や環などの代数的な量に移し換えて調べたりする学問であり、数学の他分野への応用も広い。
[立花俊一]
『矢野健太郎著『幾何学の歴史』(1973・日本放送出版協会)』▽『寺阪英孝著『非ユークリッド幾何の世界』(1977・講談社)』
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…数学に関しては前6世紀のタレス,ピタゴラスに始まる多くの名が挙げられるが,そのうちでも前3世紀のユークリッド(エウクレイデス)およびアルキメデスは重要である。 ユークリッドの主著《ストイケイア(原論)》(13巻)は,幾何学に関する内容が多いので,《幾何学原本》とも呼ばれているが,数論や実数論をも扱っており,それまでに得られていたギリシア数学の成果を体系的に集大成したものである。当時の文化の中心地であったアレクサンドリアの学問の殿堂ムセイオンで教科書のようにして用いられたようで,多くの写本が残され,19世紀の数学史家によってほとんど完全と思われるテキストが復元された。…
※「幾何学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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