日本歴史地名大系 「広木村」の解説 広木村ひろきむら 埼玉県:児玉郡美里町広木村[現在地名]美里町広木八王子構造線の山地から北部の身馴(みなれ)川と志戸(しど)川に挟まれた水田地域に及ぶ南北に細長い村で、水田には条里の区画が残っていた。南部の山地は志戸川の流れを尾根で挟み、山地から水田地域に移行する北麓を鎌倉街道上道が通る。東は駒衣(こまぎぬ)村・大仏(だいぶつ)村、西は秋山(あきやま)村(現児玉町)、北は児玉郡沼上(ぬまがみ)村。鎌倉街道に沿った本村には上宿(かみじゆく)・中宿・下宿があり、丘陵に挟まれた万場(まんば)、枌木(ねりぎ)、北部の水田地域に広木新田の集落がある。「和名抄」にみえる那珂(なか)郡弘紀(ひろき)郷の遺称地とされる。県指定旧跡の伝大伴真足女(でんおおとものまたりめ)遺跡は、その夫である檜前舎人石前の館跡と伝えられる。「万葉集」巻二〇には、防人の歌として真足女が詠んだ「枕大刀腰に取り佩きまかなしき背ろがまき来む月の知らなく」の歌が載る。また同書巻九に「那賀郡の曝井の歌一首」として「三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」と詠まれ、朝貢絹布をさらした井戸と伝える曝井(さらしい)遺跡(大興寺の北に所在する県指定旧跡)には、弘化二年(一八四五)の橘守部撰文の曝井碑がある。 広木村ひろぎむら 鳥取県:気高郡鹿野町広木村[現在地名]鹿野町広木閉野(とじの)村の北東、末用(すえもち)川の下流東岸に位置する。北は塚手(つかで)村(現気高町)。母木(ははき)宿から下光元(しもみつもと)村(いずれも現同上)を経て鹿野に通じる道が通る(因幡志)。拝領高は六〇石余、本免は五ツ四分。藪役銀一二匁一分五厘が課せられ(藩史)、梶浦氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数一二。 広木村ひろぎむら 岡山県:玉野市広木村[現在地名]玉野市八浜町波知(はちはまちようはち)八浜村の東に位置し、八浜新田によって生れた新(しん)川を境とする。寛永備前国絵図では村高一〇二石余。享保六年(一七二一)の家数一一・人数七九、田畠一〇町五反(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高一〇二石余、直高一四一石余で家老池田伊賀の給地、田九反余・畑八町三反余、樋・井戸・池各二、家数二四・人数一一六、牛八。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by