広村(読み)ひろむら

日本歴史地名大系 「広村」の解説

広村
ひろむら

[現在地名]呉市広町・広中ひろなか町・多賀谷たがや

仁方にがた村の西および北に位置し、西は阿賀あが村、南は瀬戸内海に面する。北東部は野呂のろ山の西斜面で標高二〇〇―七〇〇メートルの山地、西部もはいみねとう山・つち山など二〇〇―六〇〇メートルの山地で、その間を北の郷原ごうはら村を経て黒瀬くろせ川が南流、その流域に小平野、河口に三角州を形成するが、下流で広大ひろおお川とよばれる黒瀬川は、三角州では広西大ひろにしおお川と広東大ひろひがしおお川に分れる。「芸藩通志」に「山足より南北三十五町、平地にして良田なり」と記す。

康応元年(一三八九)の「鹿苑院殿厳島詣記」に「かうしろ(川尻)、ひろ、くれ、はたみ、かまがりのせと、かやうの浦々過させ給へり」とみえ、大永三年(一五二三)八月一〇日付の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)に「広浦 百廿貫 呉衆諸給人知行」とある。天文二三年(一五五四)一〇月一九日付の小早川隆景奉行人連署の芸州加茂郡広浦之内百貫文打渡帳(「閥閲録」所収金山清兵衛家文書)には田畠各六筆ずつ、計田二一町八段余・畠七町五段余、その代一〇二貫五九二文が金山右京進に知行地として与えられている。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には高一〇一八・一九石とある。享保六年(一七二一)賀茂郡広村指出帖(「呉市史」所収)が記す慶長六年(一六〇一)一一月の検地によると田方六九町九反余で六五五・二九四石、畠方四七町三反余で一四六・二一石、屋敷三町五反余で五二・九一石、ほかに上り高一六三・七六七石であった。


広村
ひろむら

[現在地名]広川町広

広川の左岸にあり、西は湯浅ゆあさ湾に面する。湯浅村(現湯浅町)とは熊野街道の広橋で結ばれる。古くは比呂・弘とも記され、応徳三年(一〇八六)一一月日付内侍藤原氏施入状案(米良文書)に「在田郡比呂庄」とみえ、「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月一八日条に「弘王子社」「弘河原」がみえる。「続風土記」広村の項に「中世西広・東広と別ち当村及名島村を東広とす」とあり、当地熊野権現社の応永一五年(一四〇八)の棟札に「東広庄」がみえ、当地は東広庄に入っていたことがわかる。近世には当村および名島なしま村のほか、中野なかの金屋かなやなか殿との柳瀬やなせ井関いせき河瀬ごのせの諸村を含め、東広庄と称した。

室町時代、紀伊国守護畠山氏が名島に高城たかしろ(広城)を築城し、広にも居館を構えた。のちこの地方を支配した湯河氏も広に館を設けたが、室町末期以来当地は栄え、「広千軒」の呼称も生れた。旧来町並の基礎は湯河氏によるところが大きいと伝えられ(広川町誌)、慶長検地高目録には「広ノ庄町」とみえ、町としての景観を整えていたようである。しかし、村高一千三九三石余、小物成一石六斗七合とされているから、制度上は、村方として位置づけられていた。


広村
ひろむら

[現在地名]鹿央町広

西部を岩原いわばる川が、東部を千田ちだ川が北流し、北は千田村、西は上広かみひろ村、南は山本やまもと大清水おおそうず(現植木町)と接する。豊前街道が村央を南北に抜ける。慶長一三年(一六〇八)検地帳によると田一六町六反七畝余・畠三五町三反六畝余・屋敷一六筆一町七反六畝余、分米四〇五石三斗余、家数一六・人数三九、牛馬一〇。同年の検地打出帳には田一町九畝余・畠一二町一反一畝余・屋敷六筆五反四畝余、分米九六石三斗余、家数六・人数一一、牛馬二とある。近世は玉名たまな郡中富手永に属し、元禄国絵図には「千田村之内広村」と記す。文化一一年(一八一四)中富手永手鑑では人数三〇二・家数七四、馬五九、質屋三、造酒屋三、紺屋二、商札二三、麹本手二、油本手三、医師一、下ケ名に恋干・井川・六路・かつね迫・湯ノ迫などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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