マニュファクチュア(読み)まにゅふぁくちゅあ(英語表記)manufacture

翻訳|manufacture

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マニュファクチュア」の意味・わかりやすい解説

マニュファクチュア
まにゅふぁくちゅあ
manufacture

マニュファクチュアは、産業革命によって機械制大工業が出現する以前の、最初の資本主義的な工業の生産形態(経営様式)をさし、通例工場制手工業と訳される。このことばは、manu(手)とfacture(製造)という2語からなるが、歴史的な用語としては、ある程度の労働者を雇用する大規模な手工業に限って用いられる。すなわち、一つの作業場の内部に数名から数10名の労働者が雇用されて、手工業的な技術に基づきながらも、分業と協業の体制のもとで工業生産が行われるという、資本主義的な工業生産の最初の形態をマニュファクチュアと称する。なお、このような歴史的な用語としてではなく、今日の日常用語としてこのことばが使われる場合には、単に工業ないし製造業という意味である。以下では、歴史的な用語としてのマニュファクチュアについて説明する。

[遅塚忠躬]

形成過程

中世の手工業は各職種ごとにギルドに組織されており、そこでは生産方法や徒弟の数などがギルドの規約によって厳しく統制されていたので、生産の自由な発展は望めなかった。ところが、中世末期から近世初頭にかけて、国内の商品経済や海外貿易が活発になり、毛織物をはじめとする商品への需要が増大した。そのため、羊毛工業などの重要な手工業は、都市のギルドの統制を逃れて農村地帯に拡延し、農村工業という形をとって自由に発展し、やがてはギルドの統制も緩み始めた。これらの手工業は、なお単純な家族規模の家内工業であったり、それらを商人が問屋制度のもとに組織したものであったりしたが、やがて手工業者や農民の分解が進むと、資本主義的な経営者とそのもとに雇用される手工業労働者とが生まれ、マニュファクチュアが形成された。

 マニュファクチュアの形成に際しては、複雑な工程をもつ商品については各種の手工業者が一つの作業場に集められて分業を主体とする生産を行い、単純な工程の商品については一種類の手工業者多数が集められて協業を主体とする生産を行ったが、いずれの場合でも、やがて、分業に基づく協業という新しい生産形態が採用されるようになった。このような労働の組織化によって、マニュファクチュアにおいては、従来の家内工業におけるよりも労働生産性が著しく高められた。したがって、とくに繊維工業や金属工業などの分野ではしだいにマニュファクチュアが支配的になり、工業化の最先進国イギリスでは、16世紀の中葉から18世紀の60年代(産業革命前夜)までが、本来的なマニュファクチュア時代とよばれており、フランスやドイツでも、やや遅れてマニュファクチュアが盛んになった。ただし、マニュファクチュアは、なお手工業的な技術を基礎としていたので、他の生産形態に対して決定的に優位にたちうるものではなく、家内工業の広範な存続を許しただけではなく、次に述べるように、問屋制度と複雑に絡み合って現れる場合が多かった。

[遅塚忠躬]

存在形態

マニュファクチュアがもっとも典型的に発展したイギリスの場合、16世紀末のヨークシャーでは、広幅毛織物を毎週4反ずつ製造するために、60人の労働者の間に次のような比率の分業が行われていたという。選毛・除塵(じょじん)および染色に12人、紡毛および刷毛に30人、織布および仕上げに12人、雑役・運搬に6人。しかし、この60人の労働者のすべてが同一の作業場に集められていたわけではなく、紡毛工程と織布工程のかなりの部分は問屋制にゆだねられていた。同じく16世紀末のヨークシャーのジョン・ポーソンという富裕な織元(おりもと)の遺産目録によれば、彼の作業場には、染色鍋(なべ)1個、刷毛具7個、紡車若干、織機1台、仕上げ工具12個が備えられていたから、この作業場では、染色工1人、刷毛工7人、紡糸工若干人、織布工2人、仕上げ工12人、合計20数人の労働者が働いていたことになる。同時に、彼の遺産には、紡糸工に前貸しされた羊毛やそこでつくられた織糸がたくさん含まれているから、紡糸(紡毛)工程のかなりの部分は問屋制前貸しにゆだねられていたことが明らかである。また、彼の作業場では、先にみたように、準備工程(刷毛)と仕上げ工程との工具数(労働者数)が多いのに対して、織機が1台しかないので、織布工程の多くが問屋制にゆだねられていたこともまた明らかである。

 このように、16世紀末のイギリスの毛織物工業におけるマニュファクチュアは、主として準備工程と仕上げ工程とを担当する中心作業場を軸にして、その外部に紡糸および織布工程を担当する問屋制度を組み合わせるという、複雑な構造をもっていた。この場合、20数人程度の労働者を雇用する中心作業場だけをマニュファクチュアと称することもできるが、むしろ、中心作業場と外部の問屋制とをともに含めた組織の全体をマニュファクチュアと称するほうが妥当であろう。

 以上のようなマニュファクチュアのあり方は、18世紀前半のイギリスにおいてもさらに大規模な形で継続していた。すなわち、18世紀前半のエセックスのトマス・グリッグズという大規模な織元の場合、総雇用労働者数は約500人に上っており、これらの労働者が選毛・洗毛・梳毛(そもう)・紡糸・織布という諸工程において、分業に基づく協業を行っていた。そして選毛・洗毛・梳毛という準備工程は中心作業場で行われ、そこでは40数人の労働者が働いていた。だが、紡糸と織布の工程は、外部で、つまり紡糸工および織布工自身の家の中で行われており、とくに、約400人に上る紡糸工は周辺15マイル(約24キロメートル)の地域に分散していた。やがて、産業革命が、紡糸工程と織布工程とを機械化することによって、このようなマニュファクチュアのあり方を変革して機械制大工業を確立することになるのである。

 なお、イギリスよりも遅れて工業化を開始したフランスやドイツにおいては、農村工業を基盤にして自生的に形成されてくるマニュファクチュアとは別に、輸出向けの商品を生産するために国王がさまざまな特権を与えて育成した特権マニュファクチュアが存在したが、これは本来の自生的なマニュファクチュアとはかなり性格を異にしていた。

[遅塚忠躬]

日本の場合

日本においても、幕末開港前後から明治初年にかけて、さまざまな分野でマニュファクチュアの形成がみられた。たとえば、19世紀中葉に和泉(いずみ)の宇多大津村(現大阪府泉大津市)では、家族労働者6人と賃織日雇15人とで営まれる綿織物マニュファクチュアがあり、同じころ、尾張(おわり)の起(おこし)村(現愛知県一宮(いちのみや)市)でも10人の奉公人を雇う綿織物マニュファクチュアがあった。また、甲斐(かい)、信濃(しなの)、武蔵(むさし)などの製糸業や、京都の西陣(にしじん)をはじめとする各地の絹織物業や、灘(なだ)の酒造業などにおいても、ほぼ同様なマニュファクチュアの存在が認められている。だが、日本では、産業革命の母胎になりうるほどにはマニュファクチュアが発展しておらず、したがって、この時期を「厳密な意味でのマニュファクチュア時代」とする説には異論が多い。

[遅塚忠躬]

『K・マルクス著『資本論』「第1巻 第12章」(長谷部文雄訳・青木書店/向坂逸郎訳・岩波文庫/岡崎次郎訳・大月書店・国民文庫)』『『大塚久雄著作集 第5巻』(1969・岩波書店)』『矢口孝次郎著『資本主義成立期の研究』(1952・有斐閣)』『山之内靖著『イギリス産業革命の史的分析』(1966・青木書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例