日本大百科全書(ニッポニカ) 「延命院事件」の意味・わかりやすい解説
延命院事件
えんめいいんじけん
江戸・日暮里(にっぽり)延命院の住職日道(にちどう)の女犯(にょぼん)事件をいう。延命院は慶安(けいあん)・承応(じょうおう)(1648~55)のころ、日長の開基にかかる、日蓮(にちれん)宗の京都・妙顕寺(みょうけんじ)の末寺(東京都荒川区西日暮里に現存)で、幕府や水戸徳川家の信仰を得た。日道はもと役者であったが、寛政(かんせい)年間(1789~1801)に延命院の住職となった。その美貌(びぼう)をもって法談、祈祷(きとう)に事寄せ、また通夜と称して世間の婦女子や大奥はじめ御三家(ごさんけ)、大名家の女中らを誘致し、姦淫(かんいん)に及んだ。1803年(享和3)、日ごろの不行跡が露顕し、寺社奉行(ぶぎょう)脇坂淡路守安董(わきざかあわじのかみやすただ)の摘発を受け、7月29日に日道は斬罪(ざんざい)、関係のあった婦女子も押込(おしこめ)、叱(しかり)などそれぞれ処罰された。また納所(なっしょ)の柳全(りゅうぜん)も新吉原五十軒道の源太郎の母親と密通したかどで、晒(さらし)のうえ寺法によって裁かれた。後日この事件は小説にされ、『観延政命談(かんえんせいめいだん)』と題し、貸本屋を通して世上に流布した。のち河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)によって7幕の世話物『日月星享和政談(じつげつせいきょうわせいだん)』(日道は劇化にさいし日当(にっとう)とされ、通稱「延命院日当」)に脚色され、1878年(明治11)東京・新富座(しんとみざ)で5世尾上(おのえ)菊五郎の日当で初演された。
[北原章男]