図書・雑誌などを期限を定めて有料で貸し出す職業をいう。貸本店ともいう。貸本屋は,江戸時代寛永年間(1624-44)以降,しだいに民衆向けのかな書き中心の小説,実用書,娯楽読物が出版されるようになり,それらを売り歩く行商本屋の兼業として始まったとみられる。1703年(元禄16)刊の雑俳集《すかたなそ》に〈借り本の書出しか来ル年堺イ〉とあり,江戸中期以後は全国的に広がり,小説類,浄瑠璃本,歌舞伎脚本,軍談,実録などは貸本屋を通じて読まれるのが一般的になった。1802年(享和2)刊《小栗忠孝記》序文に〈つれづれなぐさむるものは やまともろこしの書 むかし今の物がたりの類なり これを小書肆の輩 背に汗し足を空にして竪横(じゆうおう)にはしり 町小路在郷までも 日数を限りて貸ありく 見るものはつかの見料をもて慰む事 当世のならはしとなりぬ〉とあるように,当時の貸本屋は背丈にあまるほどの本を笈箱(おいばこ)やふろしきで背負って得意先を回ったが,後期になると江戸の長門屋(ながとや)や名古屋の大惣(だいそう)(大野屋惣八)のように店を構えて営業するものも現れた。貸本屋は08年(文化5)江戸で656軒(《画入読本外題作者画工書肆名目集》),同じころ大坂で約300軒(《慶長以来大坂出版書籍目録》)という記録もあるが,本屋との兼業者も含めるとこの数をはるかに上回ると思われる。山東京伝が《双蝶記》(1813)の序文に〈板元は親里なり。読でくださる御方様は壻君なり。貸本屋様はお媒人(なかうど)なり〉と記すように,当時の貸本屋は作者,版元,読者の間にあって,作品の制作,普及に不可欠の役割を果たした。また,幕府の過酷な出版統制下,貸本屋が多くの禁書をひそかに貸し出した一面もあった。大惣は1767年(明和4)の創業から1911年ころに至る5代約150年にわたり書物の収集に努め,数万巻の蔵書を3棟の蔵に整理保存してこれを公開し,庶民はもちろん学者,文人,武家などに広く利用された。その旧蔵書は現在国立国会図書館,京都大学,東京大学の和書の中心資料の一つになっている。
明治維新の動乱後,活気を取り戻した貸本屋も1883年ころを境にして,活版本が安価に出回るようになり減少するが,代わって東京神田のいろは屋貸本店(1886-1913ころ)など学術書,翻訳書,新小説を中心とした貸本屋が各地に現れた。また,東京牛込の池清(いけせい)は江戸,明治,大正とひとり生き続け1931年ころまで営業したという。大正以降は,社会主義的書物を多く集めた札幌の独立社など異色のものもあるが,多くは大衆小説を中心にして古本屋の兼業であった。40年出版統制が強化され,翌年古書籍公定価格制度が施行されると,書物の払底による古書店の自衛策から貸本兼業者が続出し,43年東京古書籍商組合で貸本統制要項を定めて兼業希望者を募ったところ639名に達したという。第2次大戦末期久米正雄,高見順ら作家が各自の蔵書を持ち寄って貸本屋鎌倉文庫をつくり話題を呼んだ。敗戦後,神戸のろまん文庫がそれまでの保証金制を信用貸し(会員制)に改めて成功し,周辺の業者に波及した。なかでもネオ書房はこの方式により50年ころから近畿,中国,中部地方に次々と出店し,53年には首都圏に進出して全盛期には約200に及ぶチェーン店を組織し,業界に大きな波紋を呼んだ。
戦後の貸本屋の特徴は新刊書籍・雑誌,とくにマンガと大衆読物を主体にして読者にアピールした点にある。とくにマンガ-劇画と貸本屋の関係は不可分であった。劇画という名称も〈貸本マンガ〉から生まれたもので,《影》《忍者武芸帳》などに代表される〈貸本マンガ〉は当時貸本屋向けに小出版社が3000部程度出すにすぎなかったが,この間に貸本屋は多くのマンガ家と読者を育て,60年代後半以降のマンガ時代の基礎をつくった。この時期はまた,中間読者層が増大し,松本清張,源氏鶏太,山手樹一郎,柴田錬三郎らの作品は貸本屋のドル箱的存在でもあった。50年代中ごろから後半に小資本で手軽に開ける貸本屋は瞬く間に増え,東京で3000軒,全国で3万軒といわれ,最盛期に達した。東京はじめ全国各地に組合が生まれ,57年にはその全国組織(全国貸本組合連合会)も結成されて,おりからの再販売価格維持問題,悪書追放運動,市場新設,共同仕入れなど業界が直面する課題に取り組んだ。しかし,その後高度成長期に入り,テレビ,週刊誌,文庫本の普及など情報,娯楽の多様化のなかで転廃業がつづいた。そのなかで山口県徳山のマツノ読書会など貸本経営の近代化を意欲的にめざし,ユニークな業績を残したものもある。なお,江戸期以来の行商宅配型の貸本を踏襲したものに回覧雑誌業がある。新刊雑誌を月ぎめ料金で定期的に各家庭に配本交換するもので,大正末ころから貸本屋の盛衰とほぼ同じ軌跡をたどって現在も各地にある。70年代以降,公立図書館の娯楽的図書の貸出しが急速に拡大し,貸本業界はこれに危機感を深め,図書館との共存をめざす運動も高まっている。現在業者数は最盛時の1割に満たないが,各種レンタル業の普及とあいまって新たな動きも各地に見られる。貸本屋は最も庶民的で,しかもきわめて個性的な読書施設で,その文化的役割は今でも決して小さくはない。
執筆者:大竹 正春
貸本屋,貸本文庫を英語ではcommercial lending library(通称circulating library)と呼ぶ。日本のものと同様,本を借り手に貸すことで収入を得る文庫をいい,借り手は定期的に会費を収めるか,1冊ごとに料金を支払う。産業革命を最初に迎えたイギリスにその例をみよう。E.M.サトーが日本へやってくるきっかけとなったのは,実はロンドンの貸本屋ミューディーズ・ライブラリーMudie's Libraryから,日本に関する記事の書かれた本を借り出して読んだことにあるといわれる。この貸本屋はミューディーC.E.Mudie(1818-90)によって1842年に始められ,基本会費1ギニー(21シリング)を納めることで貸し出された。彼の文庫は,2,3の支店を持つだけであったが,各地のブッククラブあるいは私的な会員制文庫private subscription library,あるいは他の小貸本業者にレンタルで貸しつけることでミューディーの本はイギリス全土にゆきわたった。しかし1937年には店を閉じている。
さて,こうした貸本業のはしりは18世紀の大衆文芸の発達をもってはじまる。1726年詩人で,書籍商でもあったラムゼーAllan Ramsay(1686-1758)が,エジンバラの町にはじめたのを最初とするが,すでに17世紀のロンドン市中では,書籍商が自家の蔵書を貸し出していたともいわれる。日本での貸本業が城崎のような湯治場と無縁でなかったように,イギリスにおいてもローマ支配時代からの温泉場バース(文字どおり温泉の意)をはじめとする保養地には欠かせないものとして栄える。ピカレスク(悪漢)小説のスモレットから,美姫あり槍試合ありの時代小説を書いたW.スコットにいたる時期に,センセーションとセンティメンタルをねらいとするいわゆるゴシック・ロマンスが生まれ,これを専門に出版したミネルバ社は,自社の製品を主に1770年ころミネルバ文庫Minerva Libraryという貸本業をも経営する。貸本業の発達とともに,作家自体が貸本向きの本を書かされるという事態が生じる。19世紀を迎えても,本はまだ高価につき購読者は限られており,貸本業は栄え続けた。しかし3巻抱き合せ廉価本three deckers(3巻を1冊にして10シリング6ペンス)が出回るようになって貸本業はおびやかされる。リバプール~マンチェスター間に鉄道が開通するのは1830年である。延びる鉄路とともに,各駅ごとに今日の駅構内売店railway bookstallsを考え,ほぼそれを独占したのはスミス親子W.H.Smith & Sonであるが,息子の方は,このネットワークを活用して貸本業のチェーン・ストアを考案した。またブーツJ.Bootsという男は,1900年に自己所有の各地の薬剤店chemist shopsに貸本文庫をつけ加える。このスミスとブーツ両人の支店を併せると優に1000店の貸本文庫チェーン・ストアになったという。しかし1950年代になるとテレビの出現,ペーパーバック本の普及,それに何より1850年の公共図書館法成立以後の公共図書館の発達,サービスの改善に伴って貸本業は下火となり,さしものスミス文庫も1961年に,またブーツ文庫も66年に店を閉じ,貸本時代は終焉を迎える。しかし広義の貸本業である会員制図書館ロンドン・ライブラリーは健在である。
→古本屋
執筆者:小野 泰博
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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書物を見料をとって貸す本屋。江戸時代の寛永(かんえい)(1624~44)のころから書物の行商人が現れ、貸本も兼業した。元禄(げんろく)(1688~1704)のころには貸本専業の者も出現、漸次増加した。1808年(文化5)の記録によると、江戸に日本橋南組・本町組・神田組など12組の貸本屋組合があり、合計656人が加入していた。当時、大坂には300人の貸本屋がいたと伝えられる。また地方城下町、在郷町、温泉場など至る所に現れた。貸本屋が扱った書物は小説、軍書の類が主で、曲亭馬琴(ばきん)、為永春水(ためながしゅんすい)らの作品は貸本屋を通じて多くの読者を得た。見料は、一概にはいえないが、新刊本の場合15日間で売り値の6分の1ほど。貸本屋は多く零細な営業であったが、なかには名古屋の大野屋惣八(そうはち)のように2万部以上の貸本をもつ業者もいた。
貸本業は明治に入っても盛んで、庶民の読書に大きく貢献した。また、学生相手の学術書・参考書の貸本屋も現れたが、これは公共図書館の普及にとってかわられた。庶民相手の貸本屋は、これまで貸本を何十冊と背負って顧客の家を回って歩く形式であったのが、店頭貸出しになるという変化があったとはいえ、絶えることなく続き、とくに第二次世界大戦後は漫画本、大衆小説を貸本として、戦後大衆文化の展開に大きな役割を果たした。
[今田洋三]
『長友千代治著『近世貸本屋の研究』(1982・東京堂出版)』
料金をとって本を貸し出す商人。木版印刷の普及により庶民相手の小説・実用書・娯楽読物が出版されはじめる寛永頃に出現した行商本屋がその始まり。売本も兼業した。大衆が娯楽本を読む場合,購読よりも貸本屋や行商本屋に見料(損料)を支払って借りるのが一般的で,江戸後期に全盛となった。貸本屋を営むには本人が本屋仲間に加入するか,本屋仲間加入者を世利親(よりおや)とし,その世利子(よりこ)となる必要があった。1808年(文化5)江戸では12組,世話役33人,総数656人が貸本屋を営業している。本問屋から仕入れた本を風呂敷に包み,家々を回る個人的行商が一般的な営業形態であった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
…紙芝居の劇場となる路地裏から見た社会は,子ども漫画にもりきれないさまざまのものを含んでいた。53年のテレビ放送の開始以後数年をへて紙芝居はおとろえ,紙芝居作者の多くは貸本屋むけ長編漫画本の制作に移る。貸本屋から漫画本をかりて読む少年たちは,50年代後半からの日本経済の高度成長の下積みとなって働いた人たちで,中学卒業後農村から都会に移り,雇主の家に間借りしていたのでテレビを見ることは難しかった。…
…一つは劇団側の所有していた台帳で,裏表紙などに作者名,所有者の役者名などが記されたものが多い。もう一つは貸本屋が書写したもので,貸本として流通していたものである。前者は書込み,訂正などが多く,再演以降の加除訂正がなされており,通読が困難なものもあるが,研究資料としては貴重である。…
…なお,ベーコンの知識分類は,後年アメリカ議会図書館の図書分類法に導入される。また18世紀における大衆文学の発生は,貸本屋を生み,産業革命は後に職工学校図書館を登場させ(1823年設立のグラスゴー職工学校図書館が特に有名),やがて有志による会員制図書館が成立して近代図書館への地ならしが行われる。
[近・現代]
T.カーライルらを発起人とする会員制図書館ロンドン・ライブラリーの成立(1841)に遅れること9年にして,ようやくイギリスでは,公費支弁による公共図書館法の制定をみる(1850)。…
※「貸本屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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