建州衛
けんしゅうえい
中国、明(みん)朝が建州女直(じょちょく)(女真(じょしん))を支配するために設立した衛(軍衛)。明朝は東部満州(中国東北部)に住んでいた女直族を支配するため、中国本土に倣って部族単位に衛所(えいしょ)制度を実施した。その部族は、吉林(きつりん)近辺に建州衛、建州左衛、建州右衛、毛憐(もうりん)衛の各衛に分けられた。これらの衛に所属する満州部族は建州女直と称され、海西(かいせい)女直、野人(やじん)女直とともに三大女直と称された。
満州諸部族は各衛を単位に自治を営み、明朝は都指揮使(としきし)の支配下に衛を通じて統治した。衛の長官である指揮使や千戸、百戸などは朝貢貿易の権利を保護するものであったが、やがて建州三衛はこの権利をめぐって内乱が起きた。16世紀末になって建州左衛出身のヌルハチ(清(しん)の太祖)は建州三衛の統合に成功し、これを基礎に後金(こうきん)国、清朝へと発展した。
[細谷良夫]
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建州衛
けんしゅうえい
Jian-zhou-wei; Chien-chou-wei
中国,明が東北満州に位置した建州女直を招撫した際に設置した衛。 15世紀初めの永楽帝初期にまず招撫に応じたカルカ (火児阿) 部をもって建州衛を設立。まもなく斡朶里部も招撫に応じたので建州左衛を増設。その後モンゴルの進出や朝鮮との抗争などによる動揺が続き,15世紀中期に近い正統年間 (1436~49) には建州左衛が分裂し,建州右衛が新設され,建州三衛となる。明末に解体再編されて五部となり,ヌルハチ (奴児哈赤)により統合。
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建州衛
けんしゅうえい
満州の女真(女直)族に対する明の統治組織の1つ
建州女直は初め松花江流域におり,のち吉林 (きつりん) 地方(建州)に移った。明朝は永楽初年,彼らを軍戸に編入し,族長を建州衛指揮使に任命して統率させた。清朝の祖ヌルハチ(太祖)はここから出て満州を統一した。
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世界大百科事典(旧版)内の建州衛の言及
【明】より
…靖難の変の内戦中に,北方ではモンゴルの勢力が回復したので,まず親征してこれを討ち,結局死ぬまで5回の遠征を試みた。東北にも意を用い,建州衛を設けて女真族を羈縻(きび)し,黒竜江下流に[奴児干(ぬるがん)都司]を設けた。南方ではベトナムの混乱に乗じて出兵し,安南布政司を設けて直接支配下に置いたほか,宦官(かんがん)[鄭和]に大船団を率いさせ,南海からインド洋,さらに東アフリカに達する大遠征を行わせた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」