後深草院二条(読み)ごふかくさいんのにじょう

朝日日本歴史人物事典 「後深草院二条」の解説

後深草院二条

没年徳治1以後(1306)
生年正嘉2(1258)
鎌倉時代の日記文学作者。二条とも。大納言源雅忠と後嵯峨院大納言典侍(四条隆親の娘)の子。2歳で母を亡くし,4歳から後深草上皇御所で育ち,14歳の年,上皇の寵愛を受けるが,15歳で父に先立たれ,生んだ皇子夭折に遭う。幼なじみの西園寺実兼に言い寄られ,ひそかに契り秘密裡に出産。仁和寺御室(11代)の性助法親王(一説に10代御室の法助法親王)にも恋を告白され,上皇の許しにより逢瀬を持ったが,法親王は病没,その後御所を退いた。31歳ごろ出家し,西行に倣って鎌倉,伊勢,奈良,厳島,坂出などへ修行の旅に出る。旅先で上皇(のち法皇)と再会して旧交を温めあったが,やがてその死に遭い,三回忌までを迎えたことが自伝『とはずがたり』にある。この自伝全5巻の前3巻には華やかな後宮生活と愛欲の苦悩が,後2巻には出家後の修行生活が回想される。特異な体験が興味をひくが,それだけでなく,構成,文体ともにすぐれ,一貫する人生史を構築したところが高く評価されよう。<参考文献>松本寧至『とはずがたりの研究

(三角洋一)

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百科事典マイペディア 「後深草院二条」の意味・わかりやすい解説

後深草院二条【ごふかくさいんのにじょう】

鎌倉後期の日記文学《とはずがたり》の作者。父は中宮大納言源雅忠,母は四条大納言藤原隆親の女(むすめ)近子。後深草院に仕えて二条と呼ばれ,寵愛を受けたが,一方で西園寺実兼,関白鷹司兼平,院弟の性助法親王らと関係を持ち,亀山天皇とも噂を立てられるなど,恋多き女性であった。やがて宮仕えを退くが,伏見天皇中宮永福門院の入内に伴い再出仕三条と呼ばれた。その後出家して東国四国などを巡り,帰京後に《とはずがたり》を執筆した。
→関連項目問はず語り

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「後深草院二条」の意味・わかりやすい解説

後深草院二条
ごふかくさいんにじょう

[生]正嘉2(1258).京都
[没]徳治1(1306)以後
鎌倉時代後期の後宮女房。『とはずがたり』の作者。父は大納言久我 (中院) 雅忠,母は四条隆親の娘大納言典侍。後深草天皇に養われ,長じてその女房となり,寵愛された。また,西園寺実兼その他とも交渉をもった。のち宮仕えを辞し,東国,四国,中国地方などに旅をした。『とはずがたり』はその自伝的作品。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後深草院二条」の解説

後深草院二条 ごふかくさいんの-にじょう

1258-? 鎌倉時代の日記文学作者。
正嘉(しょうか)2年生まれ。父は源雅忠,母は四条隆親(たかちか)の娘近子。後深草上皇につかえ,女房となる。正応(しょうおう)元年出家し,翌年から諸国を遊歴。生涯を回想した「とはずがたり」には,当時の宮廷生活や旅の思い出などがえがかれている。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の後深草院二条の言及

【問はず語り】より

…5巻。著者は後深草院二条(ごふかくさいんのにじよう)で,久我雅忠の女。巻一~三は,著者14歳の1271年(文永8)から28歳までの宮廷生活の回顧で,巻四,五は,出家の後,32歳の1289年(正応2)から始まる諸国行脚の紀行を記し,1306年(徳治1)後深草院三回忌で筆をおく。…

※「後深草院二条」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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