百科事典マイペディアの解説
問はず語り【とわずがたり】
→関連項目岩淵
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鎌倉後期の日記文学。五巻。成立は1306年(徳治1)以後。1313年(正和2)までに成立していたことは確かである。作者は中院雅忠(なかのいんまさただ)の女(むすめ)、後深草(ごふかくさ)院二条。のちに三条とよばれたこともある。1258年(正嘉2)生まれ。没年未詳。
内容は二条14歳、1271年(文永8)より49歳までのことであり、前三巻は宮廷編もしくは愛欲編、後二巻は紀行編もしくは修行編ともいえる。後深草院の寵愛(ちょうあい)を受けたことから始まるが、ほかに「雪の曙(あけぼの)」(西園寺実兼(さいおんじさねかね))、「有明の月」(仁和寺性助(にんなじしょうじょ)法親王ともするが仁和寺准后(じゅごう)法助がよい)、「近衛大殿(このえのおおとの)」(鷹司(たかつかさ)兼平)、亀山院などとも男女の交渉をもつ。こうして華やかな生活を送るが、やがて寵衰えて御所を退出する(前編)。かねて信仰と文学とに自由に生きた歌僧西行(さいぎょう)にあこがれを抱いていたが、退出を契機に出家を果たし、諸国行脚(あんぎゃ)の旅に出る。1289年(正応2)東海道を下り鎌倉に至り、諸社寺を参拝、おりから将軍惟康(これやす)親王が廃され、後深草皇子久明親王が新将軍として下向するのに際会。さらに善光寺に参って帰京。1302年(乾元1)安芸厳島(あきいつくしま)に詣(もう)で、四国を回り足摺(あしずり)岬にも行ったとする。備後(びんご)国和知(わち)(広島県三次(みよし)市和知町)に滞在して帰京、後深草崩御にあう。記述はその三回忌まで。宮廷での華やかな思い出、西行を慕っての旅の記念に『問はず語り』を書いたことを述べる(後編)。興味深い内容と雄大な構想とで中世日記文学の最高傑作。歴史物語『増鏡(ますかがみ)』に大幅に採用された。
[松本寧至]
『福田秀一校注『新潮日本古典集成 とはずがたり』(1978・新潮社)』▽『久保田淳校注・訳『完訳日本の古典38・39 とはずがたり』(1985・小学館)』▽『玉井幸助著『とはずがたり研究大成』(1971・明治書院)』▽『松本寧至著『とはずがたりの研究』(1971・桜楓社)』▽『松本寧至著『中世女流日記文学の研究』(1983・明治書院)』
アウトサイド・コーナー outside corner 打者から見て本塁上の遠い側。外角。和製英語ではアウトコーナーともいう。アシスト assist打者が打った球を捕球後にある塁に送球し走者の刺殺を間接...
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