日本歴史地名大系 「徳星寺」の解説 徳星寺とくしようじ 茨城県:古河市古河町徳星寺[現在地名]古河市横山町三丁目雀(すずめ)神社への通りの裏手(近世の横町)に所在。竜見山舎那(しやな)院極楽(ごくらく)坊と号し、真言宗豊山派。本尊阿弥陀如来。元禄三年(一六九〇)に古本をもって作成したとする総州下河辺庄古河邑徳星寺開基略記によれば、建治元年(一二七五)後宇多天皇に仕えた徳星丸の発願により、勅命を受けて下向した良賢が立崎(たつさき)の源頼政の墓所に開創。徳星丸は頼政の臣猪早太(下河辺氏)の曾孫で、のち剃髪して第六代満海と称した。 徳星寺とくしようじ 千葉県:香取郡山田町小見村徳星寺[現在地名]山田町小見富光山と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には世良田長楽(せらだちようらく)寺(現群馬県尾島町)の末寺であった。行基が創建したと伝える。のちに千葉氏の祈願所となり、ことに小見(おみ)城主木内胤広の子良海が当寺を中興したことにより、木内氏が代々帰依したとされる(香取郡誌)。当寺は初め田部(たべ)にあり、応安七年(一三七四)には西光(さいこう)寺と称していたが、のち小見へ移され徳星寺と改められた(享保一五年「蓮華院流血脈写」徳星寺文書)。延文四年(一三五九)の奥書のある胎蔵界灌頂私記、応安四年の奥書のある胎蔵界大灌頂秘要私記があり、永禄一三年(一五七〇)一一月一四日の伝法灌頂請定(いずれも徳星寺文書)には田部(たべ)、奈土(など)・村田(むらた)(現大栄町)、小見河(おみがわ)(現小見川町)、長岡(ながおか)などの地名とともに寺院坊堂名が記載されており、当時の勢力範囲がうかがえる。 徳星寺とくしようじ 埼玉県:上尾市畔吉村徳星寺[現在地名]上尾市畔吉東高野山遍明院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。創建の時期は不明。寺伝によれば弘法大師開闢の地ゆえ東高野山と称するといい、また永禄六年(一五六三)に別所(べつしよ)村(現伊奈町)の法光(ほうこう)寺(現真言宗智山派)と宗旨を交換して天台宗に改宗したという伝承がある。天正一七年(一五八九)八月二八日太田氏房により「徳正寺」の寺内と門前の諸役が免除され、不入の地とされた(「太田氏房印判状」当寺蔵)。同一九年一一月には徳川家康から畔吉郷内で寺領三石が寄進され(「徳川家康朱印状」同蔵)、以後代々寺領を安堵された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by