千曲川東南方にあった中世の郷。平安時代から藤原姓中野氏の所領であったが文永年間(一二六四―七五)市河氏に譲渡され中世末に至る。平安末期からの中野氏文書を含め「市河文書」として山形県酒田市本間美術館所蔵の重要文化財指定文書をはじめとして多数の史料を有する。
郷の地域は、現栄村のうちの志久見村・箕作村と現野沢温泉村のうち赤滝川以東の野沢村・坪山村・平林村・虫生村・七ヶ巻村・東大滝村及び上信越山岳地帯を含んでいる。
郷内の地勢は、苗場山(二一四五・三メートル)・大次郎山(一六六二メートル)・毛無山(一六五〇メートル)の北斜面の志久見川・大巻川・小箕作川の流域である現栄村の地域と、毛無山西麓の現野沢温泉村地域に大きく二分され、野沢温泉村地域は下条であるから栄村地域は本郷とみられる。
中野氏の本拠現中野市とは、現木島平村馬曲の字沓掛を通り志久見から越後へ通じる古道で結ばれ、本郷とみられる志久見村から下条である平林・野沢へは野沢峠道(→野沢峠)が通じている。
郷の南方は赤滝川を境とし新熊野社領小菅庄に接し、旧野沢村は湯山庄としても市河文書に記されている。北方は志久見川を境とし「平家物語」に木曾義仲と越後の城氏との横田河原(現長野市篠ノ井)合戦の条に「植田越には津張の庄司大夫宗親」とある津張庄(津張・妻有・妻在とも書く。現新潟県中魚沼郡津南町)に接している。
嘉応二年(一一七〇)藤原助弘が中野郷(→中野郷)西条の下司職に任ぜられた文書の端裏書に「これはへいけの御下文」とあるから志久見郷も平家の没官領であったとみられる。