志紀南庄・志紀北庄(読み)しきみなみのしよう・しききたのしよう

日本歴史地名大系 「志紀南庄・志紀北庄」の解説

志紀南庄・志紀北庄
しきみなみのしよう・しききたのしよう

山城醍醐寺領河内国五ヵ庄のなかの二庄。志紀郡内にあったことは確かだが、それ以上の所在地比定はむずかしい。「醍醐雑事記」に「河内国五箇庄」として「志紀南五十三町五段二百八十歩」「同北五十六町五段六十歩」とある。他の三ヵ庄はこおり(現寝屋川市)若江わかえ(現東大阪市)および現八尾市域に比定される渋川庄。五ヵ庄合せて一九五町余、年貢は反別四斗。また「預所得分 佃 郡并志紀南北各二町 若江渋川各一町 段米段別一斗二升」とあり、末尾に「已上両庄 前朱雀院勅旨田」と記されている。両庄とは河内国五箇庄とその前段に記される伊勢国曾根そね(禰)庄をいう。河内国五箇庄に関する天承元年(一一三一)八月六日の官宣旨案(醍醐雑事記)には「件等庄者、是天暦年中勅施入」とあり、文治二年(一一八六)四月八日の醍醐寺文書目録(同書)の河内五ヵ庄関係文書の書上では、天暦六年(九五二)二月一日の官符宣旨案が最初に記される。この頃、朱雀上皇の落飾に先立ち醍醐寺に施入されたものであろう。天承元年の官宣旨によれば、施入後は不輸租の官符を受け、臨時雑役を免除されており、この時も先例に任せて造伊勢太神宮作料米を免除されている。五ヵ庄は前出のように河内国五箇庄あるいは河内庄として一括して把握される場合が多く、延久三年(一〇七一)五月六日の官宣旨案(同書)で造宮米、同六年七月七日の官宣旨案(同書)で造野宮作料米、承保四年(一〇七七)二月二〇日の官宣旨案(同書)で防河堤并臨時夫役が免除されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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