怒田村(読み)ぬだむら

日本歴史地名大系 「怒田村」の解説

怒田村
ぬだむら

[現在地名]南足柄市怒田

西部山中より流出するほら川が東流し、東は竹松たけまつ村・壗下まました村、西は苅野一色かりのいしき村・苅野岩かりのいわ村・内山うちやま村、南は弘西寺こうさいじ村・福泉ふくせん村・関本せきもと村、北は千津島せんどしま村・班目まだらめ村・小市こいち村と接し、東から北に川村関所かわむらせきしよ道が抜け、一里塚を越えて関所せきしよ道が西に分れる。

室町時代前半に鎌倉浄光明じようこうみよう寺領の「奴田郷」としてみえ、明徳四年(一三九三)三月晦日の関東公方足利氏満御教書(県史三)で諸公事免除とされ、享徳二年(一四五三)一二月一五日の関東公方足利成氏御教書(同書)では諸公事免除に加え守護使・郡使不入とされている。小田原衆所領役帳に高田左衛門「百七拾貫文 西郡怒田郷」とあり、天正一三年(一五八五)三月七日には小田原城大普請のために人足四人、鍬・簀を持って一〇日間の仕役を命ぜられている(「北条家朱印状」同書)


怒田村
ぬたむら

[現在地名]田主丸町豊城とよき

田主丸町の西、日田街道北側に位置する。幕末のものと考えられる村絵図(中村家蔵)によれば街道沿いの雲雀津留ひばりつる溝筋に怒田村作橋・口高くちだか村作橋・かた橋が並び、耕地は蜷川にながわ村・口高村・灰塚はいづか村分などとともに日田街道南側にも広がる。本高は二六〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三五〇石・役高八一一石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦二八石余・小麦一四石余・菜種四石六斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)


怒田村
ぬだむら

[現在地名]君津市怒田

浦田うらた村の東、御腹おはら川水源地に位置する。北西稜線を越え久留里くるり城下へ通じ、東は市原郡石塚いしづか(現市原市)。応永二六年(一四一九)一二月二七日の鎌倉公方足利持氏御判御教書(円覚寺文書)畔蒜あびる庄内「亀山郷并沼田寺」などとみえ、鎌倉円覚寺に永仁(一二九三―九九)嘉暦(一三二六―二九)・建武二年(一三三五)の官符に任せて安堵されている。しかし建武二年の官符には沼田ぬだ寺は記されていなかったようで(同四年七月一〇日「足利直義安堵状」同文書)創建は建武三年から応永二六年の間と思われる。寛正五年(一四六四)八月五日に造り始められた当地大日堂大日如来像の台座に「沼田寺大日如来」とみえ(同年九月二〇日「同坐像台座墨書銘」)、「沼田」は「怒田」と考えられるから、この大日堂が沼田寺にあたると思われる。


怒田村
ぬたむら

[現在地名]大豊町怒田

南西流する南小川みなみこがわの南岸で、北流する南大王みなみだいおう川が南小川に合流する付近の東岸にある山村。「土佐州郡志」は「柚之木村ノ西、東西三十二町南北一里余」と記し、村内の小村として三子野みつごのをあげる。同書は「奴田村」と記す。天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に三子野が「南地九名」の一としてみえる。怒田は天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「布田名」とみえ、検地面積五町四八代五歩、うち田分二町六反三七代、畠分一町六反四五代四歩、屋敷一九で七反一六代一歩。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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