日本歴史地名大系 「恩智神社」の解説
恩智神社
おんぢじんじや
東高野街道沿いに鳥居があり、「恩智大明神常夜燈」と刻んだ石灯が両側に立つ。所在地は恩智城跡の東方で、鳥居から東へ進むと急な勾配の石段があり、登り切った恩智山の中腹に社殿がある。現祭神は大御食津彦大神・大御食津姫大神。旧府社。当社は後述するように、もと恩智集落西の
史料上の初見は「令集解」所引の天平一〇年(七三八)頃成立の「古記」で、相嘗祭の班幣にあずかっていたことが知られる。天平神護二年(七六六)には三七戸の神封があてられており、内訳は河内九戸・丹後七戸・播磨一〇戸・美作一一戸であった(大同元年牒「新抄格勅符抄」所引)。「新撰姓氏録」(河内国神別)には「恩智神主 高魂命児伊久魂命之後也」とあり、この恩智神主が奉祭氏族であったと考えられる。「続日本紀」神護景雲二年(七六八)一一月二日条には美作掾正六位上恩智神主広人の名がみえる。嘉祥三年(八五〇)一〇月七日、「河内国恩智大御食津彦命神、恩智大御食津姫命神」に正三位が授与され(文徳実録)、貞観元年(八五九)正月二七日には京畿七道諸神に一斉奉叙がなされたが、河内国では従一位勲三等
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報