日本歴史地名大系 の解説
恵林寺領穀米并公事諸納物帳・恵林寺領御検地日記
えりんじりようこくまいならびにくじしよおさめものちよう・えりんじりようおんけんちにつき
各一冊
成立 永禄六年
原本 恵林寺
解説 永禄六年武田氏家臣市川家光らにより恵林寺領諸郷に対して行われた検地結果をまとめたもの。俗に青表紙とよばれる。年貢・公事・夫役や屋敷地の実態など、甲斐国内で行われた武田氏による検地の詳細を知ることのできる史料。
この検地で武田氏は恵林寺領諸郷の住人を御家人衆・軍役衆・惣百姓に区別しており、御家人衆に対しては従来の公方年貢(本年貢・本成方)の負担を免除して御恩分とし、さらに加えて踏出分をも御重恩として給与し、軍役動員のための基盤とした。一二人が確認される御家人衆は、武田氏の重臣吉田信生・飯富虎昌・飯富昌景・甘利昌忠・工藤昌秀・三枝守友・加藤弥五郎・跡部信秋・跡部藤五郎らの同心衆という肩書をもち、その米地(公方年貢)・公事地・屋敷地・杣山免などの名請地を総計すると、いずれも抜きん出た経営規模を誇っていたことが知られる。彼らは検地以前にすでに武田氏のもとへ軍役衆として編成されており、公方年貢分の負担免除の措置はすでに行われていてこの検地で追認され、さらに踏出分が給与されたのであろう。次いで軍役衆は二四人が確認される。彼らは御家人衆とは違い特定の寄親の肩書をもっておらず、おそらくこの検地に伴って新たに軍役衆に編入されたものとみられる。彼らに対する特権措置の特徴は、公方年貢分の負担は従来のままとし恵林寺への納入を義務づけているが、新たに摘発された踏出分をすべて御免(給与)とし、これを軍役動員に際しての基盤としたことにある。惣百姓として区別された階層は諸郷総計で一四五人が認められ、有姓四一人・無姓六二人・僧名三八人・職人四人という内訳を示す。その名請地をみると二貫文以下の者が圧倒的に多い。彼らを、零細耕地を保有してそれを基盤に自立化の道をたどりつつもなお再生産が未熟な段階にあり、御家人衆・軍役衆といった村落上層の経営に包摂され、隷属的に使役されるという過渡的段階にあるとする説がある。しかし検地帳に記載される名請地が惣百姓層の耕地のすべてであるとは限らず、恵林寺領以外での耕地の保有や出入作関係についても考慮する必要があろう。また経営のすべてを耕地での穀物生産に頼っていたとは限らず、恵林寺領が山間地域に所在することを考慮すれば、山稼などによる経営も考えられる。なお検地帳では、惣百姓は公方年貢を従来どおり恵林寺へ納入し踏出分も原則として課税対象とされるが、踏出分については二割から四割の控除が認められて残りが上納分として指定されている。こうした検地施行原則は武田領国における他の諸事例を検討すると、一般の百姓に適用された事実はなく、むしろ名主層に適用された原則であるとし、踏出(増分)全額免除が軍役衆、一部免除は名主層に適用されることから、当検地にみえる惣百姓は名主層に相当するという説があり、現在これが有力である。ところでこの検地によって打出された踏出については、隠田(公方年貢摘発分)とするか名田の内徳(名主加地子得分)とみるかで学説の対立がある。前者とすれば、当寺領で実施された武田検地は寺領に広く残されていた庄園制的収取関係に手を付けることなく、それを容認しつつ隠田摘発とその掌握による軍事・税制の再編成を目指したと考える立場となり、戦国大名領国制は庄園制の最終段階に位置し、庄園制とその担い手である名主層の権益を擁護し依拠する権力であることになる。また後者の場合は、戦国大名が検地で踏出として名主加地子得分を掌握して貫高制に組込んで一元化し、独自の権力編成を成し遂げたことを評価することになる。この場合戦国大名は、庄園制的収取関係を否定する近世権力との連続性の側面が強調されることになる。現在学説は対立したままであるが、後者の意見が有力である。
活字本 新編甲州古文書三
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報