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蘇軾 そしょくSu Shi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蘇軾
そしょく
Su Shi

[生]景祐3(1036).12.19.
[没]建中靖国1(1101).7.28.
中国,北宋の文学者,書家,政治家。眉州眉山 (四川省) の人。字,子瞻 (しせん) 。号,東坡 (とうば) 。嘉祐2 (1057) 年進士に及第。欧陽修に認められ,英宗の信任を得た。しかしまもなく王安石新法に反対したため地方官に転出。その後も政争の渦に巻込まれ,また直言をはばからぬ性格もあって,しばしば左遷され,生涯の多くを地方長官で過して終った。父の蘇洵,弟の蘇轍とともに「三蘇」と称される。儒道仏に通じ,詩文書画のあらゆる分野で天才的な業績を残し,宋代を代表する文豪である。黄庭堅秦観陳師道,張耒らはその弟子 (蘇門四学士) 。作品『赤壁賦』はよく知られる。書では真跡を伝える『黄州寒食詩巻』が残る。詩文集『東坡七集』。

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デジタル大辞泉の解説

そ‐しょく【蘇軾】

[1036~1101]中国、北宋の政治家・文学者眉山(びざん)(四川省)の人。字(あざな)は子瞻(しせん)。号は東坡(とうば)居士唐宋八家の一人。父蘇洵(そじゅん)、弟蘇轍(そてつ)と合わせて三蘇とよばれる。王安石の新法に反対して左遷され、諸州の地方官を歴任。黄州では「赤壁賦」を生む。詞・書・画にもすぐれた。大蘇。蘇東坡

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百科事典マイペディアの解説

蘇軾【そしょく】

中国,北宋の詩人。四川省眉山の人。字は子瞻(しせん),号は東坡(とうば)。父の洵(じゅん),弟の轍(てつ)と〈三蘇〉と併称,それぞれ唐宋八大家の一人。1057年の進士。
→関連項目黄庭堅蔡襄西湖趙令穣唐宋八大家梅尭臣墨竹

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世界大百科事典 第2版の解説

そしょく【蘇軾 Sū Shì】

1036‐1101
中国,宋代の士大夫(文人官僚)。号は東坡居士(とうばこじ)。その博大な人格とのびやかな詩文によって,ひろく人々に親しまれてきた。父の蘇洵(そじゆん),弟の蘇轍(そてつ)とともに〈三蘇〉と称せられる。現在の四川省眉山県の小地主の家に生まれた蘇軾は,寺子屋に学ぶ庶民としての教育を通じてその学問を培い,22歳で科挙進士科及第して官界に入る。40歳代の半ばまではおもに各地の知事を務めるが,おりから新法党の王安石らの施策に反対して,旧法党の首領格と目されるはめとなる。

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大辞林 第三版の解説

そしょく【蘇軾】

1036~1101) 中国、北宋の詩人・文学者。字あざなは子瞻しせん、号は東坡とうば。父の蘇洵そじゆん、弟の蘇轍そてつと合わせて三蘇と呼ばれる。王安石の新法に反対し、しばしば左遷された。黄州(湖北省)に左遷されたときに詠じた「赤壁賦」はその代表作。多才で、散文・韻文ともにすぐれ、散文では唐宋八大家の一人に数えられ、詩も宋代詩人中第一に位した。著作集「東坡全集」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蘇軾
そしょく
(1036―1101)

中国、北宋(ほくそう)の政治家、文学者。字(あざな)は子瞻(しせん)。東坡居士(とうばこじ)の号で親しまれる。蘇軾は宋代、ひいては中国の近世を代表する士大夫(したいふ)(文人官僚)であり、その生涯は政争の渦中にあって波瀾(はらん)に富むが、それに抗して持ち前の明朗闊達(かったつ)さを失うことのなかった強靭(きょうじん)にして博大な人格は、いつの世にも人々に敬慕され、その詩文は人口に膾炙(かいしゃ)する。
 蘇軾は北宋の中ごろ、いまの四川(しせん)省の眉山(びざん)県の町で蘇洵(そじゅん)を父として生まれ、その地で成長した。小地主の階層に属するその家庭の暮らしはつつましく、3年後に生まれた弟の蘇轍(そてつ)とは寺子屋に通って机を並べたこともある。21歳で弟とともに科挙(文官試験)に及第し、26歳のとき制科(特別任用試験)に応じて優れた成績で合格、鳳翔(ほうしょう)府の事務官に任じられる。やがて中央政府に移るが、気鋭の神宗皇帝が王安石らを起用して新法(行財政革新策)を推進するに及んで、それに反対、地方官となって杭州(こうしゅう)、密(みつ)州などに赴任するが、湖(こ)州の知事であった44歳のとき、詩文によって朝政を誹謗(ひぼう)したとして御史台(ぎょしだい)(司法機関)の獄に投ぜられ、死罪の危機に直面する。中国では初の筆禍事件として知られる。幸い皇帝の恩命を得て死を免れ、長江に沿う黄(こう)州に流罪となる。蘇軾は配所にあって労働のかたわら新生を目ざして思索を深め、「赤壁(せきへき)の賦(ふ)」を含む優れた作品を生み、東坡居士を号することとなる。やがて神宗が崩じ哲宗皇帝が即位して旧法を復すると、天子側近の職に起用されて礼部尚書に至るが、その治世の後半は新法が復活され、晩年の蘇軾は恵(けい)州、さらに海南島に流される。そして大陸への帰還が許されてまもない66歳のとき、波瀾に富んだ生涯を閉じた。蘇軾は理知的な学問の人であり、かつ繊細な感覚の詩人でもあった。その全集『東坡七集』に収める詩賦は流水のごとくのびやかで、文は達意を旨として、「唐宋八大家」に数えられる。中国を代表する書家でもある。[山本和義]
『小川環樹・山本和義著『中国文明選2 蘇東坡集』(1972・朝日新聞社) ▽山本和義著『中国詩文選19 蘇軾』(1973・筑摩書房)』

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世界大百科事典内の蘇軾の言及

【海南島】より

…唐代には,有名な僧鑑真らが日本渡航の際,748年(天宝7)にここに漂着した。古くより蛮夷の地として,官吏,文人が流されたが,唐の李徳裕や宋の蘇軾(そしよく)などが著名である。元代にも文宗のはじめ,多数の皇族・高官が政争のためここに流された。…

【画論】より

…山水画論には荆浩《筆法記》,郭熙《林泉高致》があり,前者は形似に対する真を取り上げ,画とは何かを問い,後者は自然に忠実な〈写真〉主義のうえに,さらに士大夫社会においてあるべき理論の山水を述べる。また蘇軾(そしよく)は文人として詩画一致を説き,米芾(べいふつ)は董源礼賛にみられるように,江南画を主張し,ともにきたるべき文人画の先駆けをなした。 元・明・清は,夏文彦《図絵宝鑑》,姜(きよう)紹書《無声詩史》,張庚《国朝画徴録》が編年体で画史を記す。…

【旧法党】より

…司馬光,呂公著らが領袖で,哲宗の元祐年間(1086‐93)政権を握ると新法をすべて破棄,その後の新旧両党の争いを招いた。蜀党(蘇軾(そしよく)),洛党(程頤(ていい)),朔(さく)党(劉摯(りゆうし))などの派閥がある。【梅原 郁】。…

【杭州】より

揚子江デルタ地帯の農業生産力の飛躍的増大,銭塘江流域,安徽省方面の産業の発達,杭州周辺の絹織物生産の開発などが相乗し,宋代に入ると杭州は江南最大の都市に成長した。また唐代の白居易(楽天),北宋の蘇軾(そしよく)(東坡)のように著名な文人知事によって西湖の灌漑水利,運河の整備などがすすめられた。彼らはまた鶴と梅を友とする高逸の詩人として日本にも知られる林逋(りんぽ)(和靖)(967‐1028)らとともに杭州と西湖を詩に詠み,人々の口に伝えられた。…

【書】より

…彼は〈筆説〉〈試筆〉《集古録跋尾》などを著し,書において最も大切なのは,技法の末節ではなく,書者の人物識見であるとし,一種の人格主義的な書論を唱えた。この思想は,その弟子の蘇軾(そしよく)(東坡),またその弟子の黄庭堅らにも受け継がれ,宋代士大夫の書論を大きく方向づけることになった。宋代の新しい書風を実作の面で打ち出したのは蔡襄(さいじよう),蘇軾,黄庭堅,米芾(べいふつ)のいわゆる宋の四大家である。…

【書論】より

…宋代になると,欧陽修が《集古録跋尾》《筆説》《試筆》を著して以来,書は主として題跋や随筆の形で鑑賞され,論評されることになる。例えば蘇軾(東坡)に《東坡題跋》,黄庭堅に《山谷題跋》があり,彼らは顔真卿の書を基礎として自己の書風を確立するとともに,新しい観点から顔書を書史の上に大きく位置づけることに成功した。米芾(べいふつ)も古法書を深く究明して,晋人の平淡天真に書の理想を求め,それをみずから血肉化することによって,因襲的な伝統派をのり越えることができた。…

【宋詩】より

… 神宗時代に入り,王安石は政治的発言を託した議論詩を作る一方,透き通るような新しい抒情を創造し,士大夫の余裕の文学としての宋詩の性格は,いっそう明確になった。蘇軾(そしよく)(東坡)は,詩においても宋代第一の大家で,楽天の哲学にもとづき,機知とユーモアを交えて,余裕の詩として最高度の達成を示す。蘇軾の門下には多くの詩人が出た。…

【宋代美術】より

…この時期の華北・江南両地方の山水画は世界の絵画史のなかでも特筆に値する高い水準にあった。北宋後半,文同,蘇軾(そしよく)を中心とするグループの墨竹より興った文人の墨戯は書と画の中間項のような新しいジャンルで,この墨戯の成立という現象は絵画における中国の特異性を示している。江南の董・巨様式は北宋末に米芾(べいふつ)によって再興されるが,李公麟の人物画と同様に,米芾も材料として紙と墨を採用した。…

【中国文学】より

…かくて〈詩余〉は唐詩の叙情的な面を受け継ぐのであるが,恋愛をうたうことはこのジャンルの職分となって,古典詩からは姿を消すようになる。一方では北宋の蘇軾(そしよく)のごとく,余技として詩余を作りつつ,その内容をひろげ,古典詩に近づけた人があった。南宋の辛棄疾(しんきしつ)も熱烈な愛国の情をこのジャンルでうたい,悲壮なひびきをもたせた。…

【唐宋八家文】より

…正しくは《唐宋八大家文読本》といい,全30巻から成る。しかしこの沈徳潜本の成立までに明の茅坤(ぼうこん)の《唐宋八大家文鈔》と清の儲欣(ちよきん)の《唐宋十大家全集録》があり,しだいに《読本》の唐の韓愈,柳宗元,宋の欧陽修,蘇洵(そじゆん),蘇軾(そしよく)(東坡),蘇轍(そてつ),曾鞏(そうきよう),王安石に定着したのである。沈徳潜は同書の序文でも唐宋文から漢代の文章である漢文にさかのぼるべきであると主張している点でもわかるように,明の古文辞派の〈文は秦漢〉のスローガンにも,ある程度の同情を寄せている格調派の指導者である。…

【白居易】より

…その作風は難解さを避け,平易な表現をめざすことを特色としており,しばしば当時の俗語をも作中に取り入れている。詩風の近い親友の元稹(げんしん)とともに〈元白〉と並称されるが,宋の文豪蘇軾(そしよく)には〈元軽白俗〉と酷評された。 白居易は生前から社会の上層下層を問わず多数の読者をもった詩人で,彼の名声は朝鮮,さらに日本にまで伝えられた。…

【文人画】より

… この文人画の起源について,単に文人の画という意味で,古く六朝時代の顧愷之(こがいし)や宗炳(そうへい)にまでさかのぼる意見があるが,文人が職業画家との違いをはっきり意識し,独自の芸術を展開したのは北宋以後のことである。蘇軾(そしよく)(東坡)が職業画家を画工と呼び,これと区別して士人画という言葉を用いたように,まず北宋後期の蘇軾の周辺に文人画の動きが現れた。蘇軾は先輩の文同の墨竹を高く称揚し,みずからも簡略な枯木竹石を描いた。…

【墨竹画】より

…中国,日本の絵画において水墨で描いた竹をいう。北宋代後半の文人,文同(1018‐79)が草書の法と竹のシルエットを結びつけたことから新しい様式的生命を獲得し,これに従弟の蘇軾(そしよく)が理論的根拠を与え,文人の墨戯として急速な流行をみるにいたった。墨竹の成立ののちにはいわゆる墨花と呼ばれる墨梅,墨蘭,墨菊等さまざまな主題が取り上げられるようになり,中国画を特色づける一ジャンルである水墨・花卉(かき)・雑画へと展開していく。…

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