中国,宋代の士大夫(文人官僚)。号は東坡居士(とうばこじ)。その博大な人格とのびやかな詩文によって,ひろく人々に親しまれてきた。父の蘇洵(そじゆん),弟の蘇轍(そてつ)とともに〈三蘇〉と称せられる。現在の四川省眉山県の小地主の家に生まれた蘇軾は,寺子屋に学ぶ庶民としての教育を通じてその学問を培い,22歳で科挙の進士科に及第して官界に入る。40歳代の半ばまではおもに各地の知事を務めるが,おりから新法党の王安石らの施策に反対して,旧法党の首領格と目されるはめとなる。そのことから,1079年(元豊2)に,その詩文が天子の政治をそしっているとして投獄され,あわや死刑の危機に瀕する。さいわいに恩赦を得て死を免がれ,蘇軾は黄州(湖北省黄岡県)に流罪されて閑居した。〈東坡居士〉の号は,このとき生活の困窮を救おうとして耕した東の丘陵地にちなんでいる。《赤壁賦》はこの流罪中の作である。政局が転じて旧法党が政権を握ると,蘇軾は,しばらくは地方官にもなるが,多くは起居舎人,翰林学士など朝廷の天子側近の任に就き,57歳のときに礼部尚書(文部大臣にあたる)に官位を進める。しかし,再び新法党が政権の座に就くと,旧法党はきびしく弾圧され,蘇軾は,94年(紹聖1)には恵州(広東省恵州市)へ,97年にはさらに僻遠の海南島へと流される(〈海外の流罪〉である)。そのころの海南島はいまだ文明の及ばぬ異民族(リー(黎)族)の居住地であって,流罪人の生活はいたって過酷だったが,蘇軾はそれにくじけず,晩年の日々を楽しみ,珠玉の詩を生んだのである。1100年(元符3)になって大陸への帰還が許され,翌年,長旅に病を得た蘇軾は,66歳でその波乱にみちた生涯を閉じた。
天下を救うことを使命として自覚する士大夫であった蘇軾は,おりからの新法党と旧法党の熾烈(しれつ)な抗争の渦中を生きて,投獄されて死刑の危機に臨み,流罪は2度に及ぶなど,その生涯はときに悲惨でさえあったが,その強靱な意志に支えられて,持ちまえの明朗闊達(かつたつ)さをついぞ失うことはなかった。のびやかな抒情表現に秀でた唐代文学を継ぐ宋代の詩文は,転じて理知的な思索の表現を特徴とするが,蘇軾こそその時代精神を代表する存在であり,〈中国のルネサンス〉を開く〈知の人〉であった。蘇軾の文学は,おおむねごく平凡な日常の営みを題材とするが,卑俗な生活に新しい美を見いだす繊細な感覚,博洽(はつこう)な学問に培われた明徹な思考力,加えてゆたかな詩藻のゆえに,従来の詩人にはない飄逸(ひよういつ)清雄なる詩境を開きえたのであり,精緻な論理を含む散文を実現したのである。その詩文は日本の〈五山文学〉に大きな影響を与えた。蘇軾の著作は《東坡七集》として集成されており,〈唐宋八大家〉の一人としてひろく読まれている。書家としては〈宋代四大家〉に数えられる。
執筆者:山本 和義
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中国、北宋(ほくそう)の政治家、文学者。字(あざな)は子瞻(しせん)。東坡居士(とうばこじ)の号で親しまれる。蘇軾は宋代、ひいては中国の近世を代表する士大夫(したいふ)(文人官僚)であり、その生涯は政争の渦中にあって波瀾(はらん)に富むが、それに抗して持ち前の明朗闊達(かったつ)さを失うことのなかった強靭(きょうじん)にして博大な人格は、いつの世にも人々に敬慕され、その詩文は人口に膾炙(かいしゃ)する。
蘇軾は北宋の中ごろ、いまの四川(しせん)省の眉山(びざん)県の町で蘇洵(そじゅん)を父として生まれ、その地で成長した。小地主の階層に属するその家庭の暮らしはつつましく、3年後に生まれた弟の蘇轍(そてつ)とは寺子屋に通って机を並べたこともある。21歳で弟とともに科挙(文官試験)に及第し、26歳のとき制科(特別任用試験)に応じて優れた成績で合格、鳳翔(ほうしょう)府の事務官に任じられる。やがて中央政府に移るが、気鋭の神宗皇帝が王安石らを起用して新法(行財政革新策)を推進するに及んで、それに反対、地方官となって杭州(こうしゅう)、密(みつ)州などに赴任するが、湖(こ)州の知事であった44歳のとき、詩文によって朝政を誹謗(ひぼう)したとして御史台(ぎょしだい)(司法機関)の獄に投ぜられ、死罪の危機に直面する。中国では初の筆禍事件として知られる。幸い皇帝の恩命を得て死を免れ、長江に沿う黄(こう)州に流罪となる。蘇軾は配所にあって労働のかたわら新生を目ざして思索を深め、「赤壁(せきへき)の賦(ふ)」を含む優れた作品を生み、東坡居士を号することとなる。やがて神宗が崩じ哲宗皇帝が即位して旧法を復すると、天子側近の職に起用されて礼部尚書に至るが、その治世の後半は新法が復活され、晩年の蘇軾は恵(けい)州、さらに海南島に流される。そして大陸への帰還が許されてまもない66歳のとき、波瀾に富んだ生涯を閉じた。蘇軾は理知的な学問の人であり、かつ繊細な感覚の詩人でもあった。その全集『東坡七集』に収める詩賦は流水のごとくのびやかで、文は達意を旨として、「唐宋八大家」に数えられる。中国を代表する書家でもある。
[山本和義]
『小川環樹・山本和義著『中国文明選2 蘇東坡集』(1972・朝日新聞社)』▽『山本和義著『中国詩文選19 蘇軾』(1973・筑摩書房)』
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1036~1101
北宋の文豪,四大書家の一人。また唐宋八大家の一人。眉山(びざん)(四川省眉山県)の人。東坡(とうば)と号す。蘇洵(そじゅん)の子。人物は剛直,高潔で,王安石の新法に反対し政治経歴は不遇であったが,学問は博学であった。欧陽脩(おうようしゅう)の古文復興を継いで詩文に優れ,豪放な詩,賦,詞によって一時期を画した。すべて『東坡全集』に収められている。なお仏教への帰依も,人とその作品に影響している。
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…唐代には,有名な僧鑑真らが日本渡航の際,748年(天宝7)にここに漂着した。古くより蛮夷の地として,官吏,文人が流されたが,唐の李徳裕や宋の蘇軾(そしよく)などが著名である。元代にも文宗のはじめ,多数の皇族・高官が政争のためここに流された。…
…山水画論には荆浩《筆法記》,郭熙《林泉高致》があり,前者は形似に対する真を取り上げ,画とは何かを問い,後者は自然に忠実な〈写真〉主義のうえに,さらに士大夫社会においてあるべき理論の山水を述べる。また蘇軾(そしよく)は文人として詩画一致を説き,米芾(べいふつ)は董源礼賛にみられるように,江南画を主張し,ともにきたるべき文人画の先駆けをなした。 元・明・清は,夏文彦《図絵宝鑑》,姜(きよう)紹書《無声詩史》,張庚《国朝画徴録》が編年体で画史を記す。…
…司馬光,呂公著らが領袖で,哲宗の元祐年間(1086‐93)政権を握ると新法をすべて破棄,その後の新旧両党の争いを招いた。蜀党(蘇軾(そしよく)),洛党(程頤(ていい)),朔(さく)党(劉摯(りゆうし))などの派閥がある。【梅原 郁】。…
…揚子江デルタ地帯の農業生産力の飛躍的増大,銭塘江流域,安徽省方面の産業の発達,杭州周辺の絹織物生産の開発などが相乗し,宋代に入ると杭州は江南最大の都市に成長した。また唐代の白居易(楽天),北宋の蘇軾(そしよく)(東坡)のように著名な文人知事によって西湖の灌漑水利,運河の整備などがすすめられた。彼らはまた鶴と梅を友とする高逸の詩人として日本にも知られる林逋(りんぽ)(和靖)(967‐1028)らとともに杭州と西湖を詩に詠み,人々の口に伝えられた。…
…彼は〈筆説〉〈試筆〉《集古録跋尾》などを著し,書において最も大切なのは,技法の末節ではなく,書者の人物識見であるとし,一種の人格主義的な書論を唱えた。この思想は,その弟子の蘇軾(そしよく)(東坡),またその弟子の黄庭堅らにも受け継がれ,宋代士大夫の書論を大きく方向づけることになった。宋代の新しい書風を実作の面で打ち出したのは蔡襄(さいじよう),蘇軾,黄庭堅,米芾(べいふつ)のいわゆる宋の四大家である。…
…宋代になると,欧陽修が《集古録跋尾》《筆説》《試筆》を著して以来,書は主として題跋や随筆の形で鑑賞され,論評されることになる。例えば蘇軾(東坡)に《東坡題跋》,黄庭堅に《山谷題跋》があり,彼らは顔真卿の書を基礎として自己の書風を確立するとともに,新しい観点から顔書を書史の上に大きく位置づけることに成功した。米芾(べいふつ)も古法書を深く究明して,晋人の平淡天真に書の理想を求め,それをみずから血肉化することによって,因襲的な伝統派をのり越えることができた。…
… 神宗時代に入り,王安石は政治的発言を託した議論詩を作る一方,透き通るような新しい抒情を創造し,士大夫の余裕の文学としての宋詩の性格は,いっそう明確になった。蘇軾(そしよく)(東坡)は,詩においても宋代第一の大家で,楽天の哲学にもとづき,機知とユーモアを交えて,余裕の詩として最高度の達成を示す。蘇軾の門下には多くの詩人が出た。…
…この時期の華北・江南両地方の山水画は世界の絵画史のなかでも特筆に値する高い水準にあった。北宋後半,文同,蘇軾(そしよく)を中心とするグループの墨竹より興った文人の墨戯は書と画の中間項のような新しいジャンルで,この墨戯の成立という現象は絵画における中国の特異性を示している。江南の董・巨様式は北宋末に米芾(べいふつ)によって再興されるが,李公麟の人物画と同様に,米芾も材料として紙と墨を採用した。…
…かくて〈詩余〉は唐詩の叙情的な面を受け継ぐのであるが,恋愛をうたうことはこのジャンルの職分となって,古典詩からは姿を消すようになる。一方では北宋の蘇軾(そしよく)のごとく,余技として詩余を作りつつ,その内容をひろげ,古典詩に近づけた人があった。南宋の辛棄疾(しんきしつ)も熱烈な愛国の情をこのジャンルでうたい,悲壮なひびきをもたせた。…
…正しくは《唐宋八大家文読本》といい,全30巻から成る。しかしこの沈徳潜本の成立までに明の茅坤(ぼうこん)の《唐宋八大家文鈔》と清の儲欣(ちよきん)の《唐宋十大家全集録》があり,しだいに《読本》の唐の韓愈,柳宗元,宋の欧陽修,蘇洵(そじゆん),蘇軾(そしよく)(東坡),蘇轍(そてつ),曾鞏(そうきよう),王安石に定着したのである。沈徳潜は同書の序文でも唐宋文から漢代の文章である漢文にさかのぼるべきであると主張している点でもわかるように,明の古文辞派の〈文は秦漢〉のスローガンにも,ある程度の同情を寄せている格調派の指導者である。…
…その作風は難解さを避け,平易な表現をめざすことを特色としており,しばしば当時の俗語をも作中に取り入れている。詩風の近い親友の元稹(げんしん)とともに〈元白〉と並称されるが,宋の文豪蘇軾(そしよく)には〈元軽白俗〉と酷評された。 白居易は生前から社会の上層下層を問わず多数の読者をもった詩人で,彼の名声は朝鮮,さらに日本にまで伝えられた。…
… この文人画の起源について,単に文人の画という意味で,古く六朝時代の顧愷之(こがいし)や宗炳(そうへい)にまでさかのぼる意見があるが,文人が職業画家との違いをはっきり意識し,独自の芸術を展開したのは北宋以後のことである。蘇軾(そしよく)(東坡)が職業画家を画工と呼び,これと区別して士人画という言葉を用いたように,まず北宋後期の蘇軾の周辺に文人画の動きが現れた。蘇軾は先輩の文同の墨竹を高く称揚し,みずからも簡略な枯木竹石を描いた。…
…中国,日本の絵画において水墨で描いた竹をいう。北宋代後半の文人,文同(1018‐79)が草書の法と竹のシルエットを結びつけたことから新しい様式的生命を獲得し,これに従弟の蘇軾(そしよく)が理論的根拠を与え,文人の墨戯として急速な流行をみるにいたった。墨竹の成立ののちにはいわゆる墨花と呼ばれる墨梅,墨蘭,墨菊等さまざまな主題が取り上げられるようになり,中国画を特色づける一ジャンルである水墨・花卉(かき)・雑画へと展開していく。…
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