女子教育者。日本女子大学校(現、日本女子大学)創立者。安政(あんせい)5年6月23日長州吉敷(よしき)藩士の家に生まれる。藩学憲章館を経て1876年(明治9)山口県教員養成所を卒業、小学校訓導となる。翌1877年同郷の沢山保羅(さわやまぽうろ)(1852―1887)と相知り大阪浪花(なにわ)教会で受洗、梅花女学校教師となり、郡山(こおりやま)教会、新潟教会牧師として伝道に従事。1886年新潟女学校を設立して校長となる。1890年女子教育研究のためアメリカに留学、アンドバー神学院、クラーク大学に学び、帰国後、梅花高等女学校校長となる。1896年辞職、女子高等普通教育の必要を力説して女子大学校設立計画を発表、政財界有力者の後援を得て1900年(明治33)日本女子大学校を設立、没年まで校長として女子高等教育の発展に尽力した。彼の教育理念は、女子を「人として」「婦人として」「国民として」教育するというもので、普通教育主義、良妻賢母主義、明治的ナショナリズムの結合したものであった。主著は『女子教育』(1896)のほか『成瀬仁蔵著作集』3巻(1981)がある。大正8年3月4日没。
[小股憲明]
『仁科節編『成瀬先生伝』(1928・桜楓会出版部/1989・大空社)』
(中嶌邦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
日本女子大学校(日本女子大学の前身)の創設者。山口県出身。1876年山口県教員養成所を卒業,県下の初等教育に従事したが,77年大阪でキリスト教に入信,プロテスタント主義の梅花女学校の創設に参加,78年教頭として女子教育に第一歩をふみだした。その後,女子教育の本格的研究とあわせて宗教心探求のため,90-94年アメリカのアンドバー神学校,クラーク大学に留学,留学中に女子高等教育機関設立の構想をふくらませた。帰国後,一時梅花女学校校長となるが,キリスト教にとらわれない女子高等教育機関設立に奔走。1901年,〈人間として,婦人として,国民として〉女子を教育する高等普通教育機関として,東京目白台に家政,国文,英文の3学部および英文予科をおく日本女子大学校を設立した。以後,没するまで一貫して校長として校務に従事,日本の女子高等教育の発展に貢献した。
執筆者:千野 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治・大正期の教育家 日本女子大学創立者。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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1858.6.23~1919.3.4
明治・大正期の女子高等教育推進者。周防国生れ。山口県教員養成所卒。1877年(明治10)大阪で受洗。翌年同地に梅花女学校を設立,校長となる。89年新潟に女学校を設立。翌年アメリカに渡り,アンドーバー神学校・クラーク大学に留学。94年帰国,再び梅花高等女学校長となる。女子高等教育機関の必要性を提唱。1901年日本女子大学校(現,日本女子大学)を設立。女性の知性向上のために尽力した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…東京都文京区目白台にある私立女子大学。その前身は,成瀬仁蔵が女子を〈人間として,婦人として,国民として〉育成することを目的に,〈信念徹底〉〈自発創生〉〈共同奉仕〉の三大綱領を教育方針として,1901年に創設した日本女子大学校である。高度の普通教育を中心にした本格的な女子高等教育機関の発足として,その女子教育史上における意義は大きい。…
※「成瀬仁蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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