精選版 日本国語大辞典 「女子教育」の意味・読み・例文・類語
じょし‐きょういくヂョシケウイク【女子教育】
- 〘 名詞 〙 女子に対する教育。特に、学校における女子の教育。
- [初出の実例]「女子教育を以て有名なる跡見女学校は、今度小石川柳町に新築せる校堂の」(出典:郵便報知新聞‐明治二一年(1888)一月一〇日)
女子を対象とする教育をいうが、近代国家においては、家庭教育や社会教育よりも、学校教育における男女の機会均等がその中心的問題となり、女性の社会的地位の向上と関連して考えられている。
[小股憲明]
洋の東西を問わず、古来女子の教育は男子と区別して考えられ、また男子の教育より軽視されるのを通例とした。日本でも古代すでに女子は大学や国学から排除され、近世に至っても江戸幕府の学問所や藩校など公的教育機関とは無縁であった。貴族政治、武家政治の時代を通じて、女子の教養は主として家庭教育や見習奉公などによっており、その内容は書道、音楽、和歌や裁縫などの技芸を中心とし、結婚生活への準備がその主目的であった。中世以来、武家の子女には勇武、貞淑などの婦徳が強調されたが、近世になると、従来からあった仏教の女性蔑視(べっし)観に加えて、体制教学としての儒教が男尊女卑思想を徹底させ、家や夫への隷従を強調する女子教訓書(『女子訓(じょしくん)』『女大学(おんなだいがく)』など)が広く流布した。一方、近世中期以後になると、諸産業の発展に支えられて、庶民の自然発生的教育機関たる寺子屋に通う女子が増え、裁縫を教える「お針屋」も普及して、『女商売往来』など女子を対象とする初等教科書(往来物(おうらいもの))も多数出版された。幕末には吉田松陰(しょういん)など、女学校設置の必要性を説く者もあった。
[小股憲明]
明治政府は1872年(明治5)近代公教育体制の創始にあたって、四民平等の原則のもとに男女平等の義務教育の実施を宣言した。小学校(義務年限4年)の女子就学率は日清(にっしん)戦争(1894~1895)ごろまでは男子の半分内外に低迷していたが、日露戦争(1904~1905)にかけての10年間に両者の差は急速に縮まり、義務年限が6年に延長された1907年(明治40)には男子98.5%に対し女子96.1%に達していた。
[小股憲明]
明治政府は、中等教育以上では男女別学を原則としたが、それは第二次世界大戦後の戦後教育改革まで変わらなかった。女子中等教育の分野では、早くから私立の女学校が多数設立され、女子教育の発展に大いに貢献した。キリスト教的人格主義の教育を行って家庭生活や社会の改良に少なからぬ影響を与えたプロテスタント系(フェリス和英女学校、明治女学校など)、伝統的良妻賢母主義に立脚した実科系(跡見(あとみ)女学校など)、カトリック系、仏教系などの女学校が次々と設立された。また、成瀬仁蔵(じんぞう)、巌本善治(よしはる)、跡見花蹊(かけい)、矢島楫子(かじこ)、下田歌子ら個性ある女子教育家が輩出した。それら特色ある女学校の多くは、明治後半期に法制上高等女学校として位置づけられ、なかには高等教育機関たる専門学校に発展するものもあった。
イギリスやアメリカでも中・高等教育への女子の進出は19世紀中葉まず教員養成機関から始まったが、明治政府が第一に力を注いだのも女子師範教育であった。各府県には早くから師範学校女子部ないし女子師範学校が置かれ、明治末年には師範学校86校のうち女子師範学校32校、卒業生男子5124人に対し女子2217人に達した。1928年(昭和3)には全府県に女子師範学校が設置されるに至り、女子教員の進出は著しいものがあった。
一方、明治20~30年代の女子就学率の急激な上昇と上級学校への進学希望者の増加により、しだいに高等女学校が整備されたが、1899年(明治32)高等女学校令により各府県にその設置が義務づけられた。高等女学校は男子の尋常中学校に対応する学校であったが、中学校より修業年限も短く、また英語、国語、数学など普通教科の時間数が少ない反面、裁縫、家事など実科に力点が置かれ、良妻賢母主義の方針がとられた。その後、実科高等女学校や高等科の設置などを経て、1943年(昭和18)中等学校令は、中学校、高等女学校、実業学校を法制上同等の中等学校として位置づけた。高等女学校は、1895年には中学校87校(生徒数3万1000人)に対して15校(生徒数3000人)にすぎなかったが、1913年(大正2)には中学校317校(生徒数13万2000人)に対して330校(実科高等女学校を含む生徒数8万3000人)となり、学校数において中学校を追い抜いた。1925年(大正14)には、中学校502校(生徒数29万7000人)、高等女学校805校(生徒数30万1000人)となり、生徒数においても中学校を上回るようになった。このように大正期における高等女学校の量的拡大は目ざましいものがあった。さらに1943年(昭和18)になると、中学校727校(60万7000人)に対して、高等女学校1299校(75万7000人)を数え、同年の実業学校1991校(男子61万9000人、女子17万5000人)を含めて考えると、中等学校に在学する女子生徒は93万人に上り、男子の122万人に迫る勢いをみせた。第二次世界大戦前のこのような女子中等教育の発展が、戦後の学制改革において男女共学で義務制の中学校を実現する歴史的前提となったことはいうまでもない。
[小股憲明]
女子中等教育の整備、拡大に伴い、女子高等教育への要求もしだいに高まったが、戦後学制改革以前においては官立の女子高等師範学校と私立・公立の女子専門学校がその要求を満たしたにとどまり、女子の大学進学は原則として認められなかった。1903年(明治36)の専門学校令によって、明治末期までに認可された女子専門学校は、成瀬仁蔵の日本女子大学校、津田梅子の女子英学塾、吉岡弥生(やよい)の東京女子医学専門学校など、すべて私立であった。大正初期より女子大学設置を求める運動がおこり、臨時教育会議(1917~1919)でも議論されたが、時期尚早として認められず、女子の高等教育は当面専門学校制度の枠内で対応することとされた。そのため1918年(大正7)の大学令によって帝国大学と別に公・私立の大学や官・公・私立の単科大学の設置が可能になったときも、女子大学やその予備教育機関としての女子高等学校は認められなかった。大正末期から昭和初期にかけて、福岡、大阪、宮城、京都、広島などの公立女子専門学校や私立女子専門学校の設立が相次ぎ、女子高等教育の量的拡大が図られたが、官立女子専門学校の設立はなかった。このように大学の門戸は原則として女子には閉ざされていたが、少数ながら女子に門戸を開放した大学もあったことは無視できない。明治末年に新設された東北帝国大学が、初代総長沢柳政太郎(まさたろう)の強い意志によって、1913年(大正2)理学部に3名の女子学生の入学を許可したのが最初である。これが突破口となって、大正期から昭和初期にかけて、官立では北海道帝国大学、九州帝国大学、東京文理科大学、広島文理科大学などが、私立では同志社大学、明治大学、法政大学、東洋大学、早稲田(わせだ)大学などが、女子の入学を認めるようになった。しかし実際に入学した女子学生はごく少数で、1937年(昭和12)を例にとると、学生総数4万8000人のうち147名(0.3%)であるにすぎなかった。とはいえ女性が正規の大学教育を受け、卒業後社会の各方面で活躍するようになったことの意義は大きく、このような趨勢(すうせい)のなかで教育審議会は、1939年、大学につながる女子高等学校の設置を、翌1940年には女子大学の設置を認める画期的答申を行った。ただ、日中戦争から太平洋戦争へと続く時局の切迫のために、その実現は戦後の学制改革に持ち越されざるをえなかった。
[小股憲明]
第二次世界大戦後の教育改革は女子教育にとっても画期的であった。新制中学の義務化により従来の約2倍の女子が中等教育を受けることとなった。
[小股憲明]
さらに男女共学が認められ、後期中等教育、高等教育への進学機会の男女平等が制度的に保証された。高等学校への進学率は昭和30~40年代にかけて男女とも急速な伸びを示したが、1969年(昭和44)以降女子の進学率が男子を上回るようになり、1983年は女子95.2%、男子92.8%、1998年(平成10)は女子97.8%、男子96.0%、2005年は女子97.9%、男子97.3%であった。また、かつては中学校技術・家庭科で男女異なる教科内容を行い、高等学校家庭科は女子のみの必修であったが、これは従来の男女の社会的役割を固定化するとの批判があり、1998年から男女共修となった。
[小股憲明]
第二次世界大戦後、高等教育への女子の進出は著しい。1955年(昭和30)に大学・短期大学への進学率は男子15.0%、女子5.0%で、男女で3倍の格差があったが、1965年には2倍の格差となり、1989年には男子35.8%に対して女子36.8%となって男女が逆転した。大学・短期大学への進学率で女子が男子を上回るという傾向は、1999年の男子48.6%、女子49.6%まで続き、翌2000年ふたたび男女の逆転がおこり、2005年には男子53.1%、女子49.8%となっている。しかし男子にくらべて低かった四年制大学への進学率は上昇しており、1998年において男子44.9%、女子27.5%と、2倍近い格差があったが、2005年では男子51.3%、女子36.8%と、わずかながら格差が縮まる傾向にある。同年の在学者についてみると、四年制大学が男子174万0151人、女子112万4900人(男子の約3分の2)であるのに対して、短期大学では逆に男子2万8224人、女子19万1131人(男子の約7倍)となっていて、短期大学在学者の87.1%を女子が占めている。大学院になると、男女の量的格差は大学以上に大きくなる。また、学部・大学院とも、理科系に女子が少なく、文科系でも文学系に女子が多く、社会科学系に少ないという、専攻分野の偏りも依然として大きい。
このような実情の背景には、女子高等教育といえども結局は結婚のための準備であるとする旧弊な意識や、就業上の男女差別的な諸問題などの事情が伏在している。しかし他方で、1996年以降、大学の女子入学者数が短期大学のそれを上回っていること、男女雇用機会均等法や女性差別撤廃条約など男女平等に向けた社会的環境の整備、それに促された女子の大学進学志望の高まり、18歳人口の激減など、状況は急速に変化しつつあり、さほど遠くない将来に、大学への進学率における男女の格差はなくなるものと予想されている。
[小股憲明]
女子大学、女子短期大学については、商船大学、防衛大学校なども含め、すべての高等教育機関が女子に門戸を開放した現在、教育の機会均等の立場からみてその存在理由はすでにないとする意見や、それらは今日ではむしろ女子高等教育の内容を低位に固定化する機能を営みつつあるとする批判、あるいは伝統的良妻賢母主義を再生産し、女性差別を温存する役割を果たすという議論などがある。一方、女子大学ではあらゆることを女子だけで行うため、共学大学よりも自立心やリーダーシップが育ちやすいという見解や、男女差別が克服されていない現状では、女子の能力と個性を十分に伸ばし女性の社会的地位を向上させるためには、とくに女子を対象とする高等教育機関がなお必要であるし、女性の生涯学習機関としても女子大学の果たす役割は大きいとの意見がある。また現代的課題である男女共同参画社会の実現に向けて、学生への教育においても社会への情報発信においても、女子大学こそが積極的な役割を果たすことができるとして、女性学の研究・教育施設などを付置する大学もあって、女子大学の存続を支持する主張も多い。
[小股憲明]
このような理念上の議論とは別に、18歳人口の減少や女子の大学志向および共学志向の高まりなどの現実問題に迫られて、大学への転換を図る短期大学が増えるなど、1996年を境として短期大学数は減少期に転じた。1998年以降、全国の入学志願者が短期大学全体の入学定員に満たない、いわゆる短大全入時代を迎え、定員割れも続出している。また、公立女子大学の共学化も進行しつつあり、群馬、静岡、大阪、広島、高知、山口、福岡、熊本にあった府県立女子大学は、1986年静岡女子大学、1994年熊本女子大学、1996年山口女子大学、2004年に広島女子大学、2005年大阪女子大学が、他大学との統合あるいは名称変更・改組により共学へと移行している。私立女子大学でも、共学へと移行する大学が相次いでいる。第二次世界大戦後、女子高等教育の拡大・発展を支えてきた女子短期大学、女子大学は、いま、その設置形態のいかんを問わず厳しい時代を迎えている。
[小股憲明]
欧米諸国でも、女子教育は、女性の社会的地位の低さと深くかかわって、男子のそれと区別され、また遅れて発達している。古代ギリシア・ローマ時代や中世、近代初期において、女子は公的教育の対象とは考えられず、家庭で母親などから授けられる家事がその教育の中心であった。中世以降、修道院、宮廷、寄宿学校、修道会などで行われた上流子女の教育も、礼儀作法や芸能を主たる内容とし、知育はほとんど顧慮されなかった。
宗教改革、市民革命、産業革命という時代の進展のなかで、女子教育の必要性に対する社会的認識も高まっていったが、フランス革命期の思想家コンドルセやルペルシェLepelletier(1760―1793)が男女平等・共学の公教育を構想したことはよく知られている。それはただちに実現されたわけではなかったが、その後各国で近代的公教育が発達するにつれて、女子の初等教育も一般化していった。そのことがまた女子教員の社会的需要を生み、19世紀中葉以降、まず女子教員養成のための中・高等教育機関が発達し、ついで他の諸分野にも及んでいった。その際、西欧諸国では男女別学が長く続くのであるが、アメリカではすでに19世紀中葉から男女共学のハイスクール、州立大学が数多く出現している。当初は中・高等教育を受ける女子の能力・体力について懐疑的な見解も多かったが、それらの教育機関に学んだ多数の女子が、能力・体力ともになんら男子に劣らないことを、事実をもって証明したのである。
20世紀に入っての女子教育は、女性の著しい社会的進出と相まって、目覚ましい発展を遂げており、今日、アメリカ、フランス、スウェーデンほかの先進国では、中等教育や高等教育において、女子の在学率が男子のそれを上回るという逆転現象さえみられる。女子大学については、アメリカでは1970年代以降その数が劇的に減少したが、1990年代に入って女子大学を再評価する動きも出てきている。
しかし世界的視野で考えた場合、北アメリカとヨーロッパ以外では、義務教育の女子就学率すら男子のそれに及ばない国々がまだ多く存在している。その結果、それらの国々では、例外なく男性よりも女性の非識字率の方が高い傾向にあり、ユネスコの統計では、15歳以上の非識字率が、先進国においては2000年時点で男性0.9%、女性1.3%、また開発途上国においては、男性18.6%、女性34.2%と推定されている。このように開発途上国においては、非識字率の高さがいまだに重要な問題であるが、それはとりわけ女性において深刻である。しかし、この30年間に識字率の着実な改善のあとがみられることもまた事実であり、その背景には義務教育就学率の向上と、成人に対する識字教育の成果がある。義務教育就学率、識字教育とも男子よりも低位におかれていた女子において、その向上のあとが著しいが、中等・高等教育については、男女の格差はいまだきわめて大きい。
男子も含めた世界的規模での教育水準の向上とともに、引き続き就学率の格差是正が求められるが、それにはまた実質的教育内容における男女の平等が伴っていることが必要であろう。
[小股憲明]
『土屋忠雄著『教育文化史大系5 女子教育の歴史』(1954・金子書房)』▽『平塚益徳編著『人物を中心とした女子教育史』(1965・帝国地方行政学会)』▽『梅根悟監修、世界教育史研究会編『世界教育史大系34 女子教育史』(1977・講談社)』▽『唐沢富太郎著『女子学生の歴史』(1979・木耳社)』▽『深谷昌志著『良妻賢母主義の教育』増補版(1981・黎明書房)』▽『片山清一著『近代日本の女子教育』(1984・建帛社)』▽『青木生子著『明日の女子教育を考える――女子大学長の手帳から』(1990・講談社)』▽『青木生子著『目白の丘 生田の森――二十一世紀の女子教育へ』(1993・講談社)』▽『小河織衣著『女子教育事始』(1995・丸善)』▽『日本女子大学女子教育研究所編『女子教育研究双書9 現代家庭の創造と教育』(1995・ドメス出版)』▽『日本女子大学女子教育研究所編『女子教育研究双書10 女子大学論』(1995・ドメス出版)』▽『坂本辰朗著『アメリカの女性大学 危機の構造』(1999・東信堂)』▽『山田昇著『日本近代女子高等教育史考――いま女子教育を問う』(1999・大空社)』▽『飯野正子・亀田帛子・高橋裕子編『津田梅子を支えた人びと』(2000・津田塾大学)』▽『高野俊著『明治初期女児小学の研究――近代日本における女子教育の源流』(2002・大月書店)』
狭義には学校における女子の教育をさすが,広義には家庭教育や社会教育における女子教育を含んでいる。男子の教育と区別される女子教育の歴史的形成にはそれなりの理由があった。女子は男子より能力が劣るから低度の教育でよいとする差別的な考え,女子と男子とでは肉体的生理的差異があるのでそれに適した教育が必要だとする考え,女子と男子の社会的役割が異なるからその役割に応じた教育がたいせつとする考えなどがその背景となっている。身分制に基づき男女の役割や職業がはっきりと区別され,男尊女卑思想が強い社会においては,女子の教育の機会がきわめて少なく,また教育内容もその考えに沿ったものであった。したがって女子教育の問題は,女子に対しても男子と同様な教育の機会の保障と,男女の性別をふまえたうえでの平等な教育内容の確立の両面がある。
明治以前の日本の女子教育の歴史を大まかにいえば,次のようになる。奈良・平安時代の貴族社会では,貴族の女子にとって和歌,書道,音楽などの教養が必要とされた。武士が支配階級となった鎌倉・室町時代では,家父長権の強化のもとで,女子は男子に服従することが強調され,家事や貞節が重視された。江戸時代になると,社会の安定,経済の発展に伴い,寺子屋,藩校など男子に対する教育体制は整備されていった。しかし女子に対しては,町人層ではある程度の寺子屋が開放されていたものの,門戸は開かれておらず,家事,裁縫,芸事などの個人レベルでの習得がおもな教育であった。そして,女子用教訓書《女大学》に代表されるように,女子は男子に従うこと,家事がたいせつであることなど儒教的道徳観が教えられた。
明治初年には,男女は平等とする欧米の近代的市民的女性観の影響をうけ,開明的女子教育振興策が急速に進められた。留学を目的とした津田梅子ら5少女のアメリカ派遣(1871),男子と同等の教育をする官立女学校の東京女学校開設(1872),〈学制〉(1872)による教育における男女平等の唱導とすべての子どもの小学校入学の奨励などが行われた。しかし自由民権運動抑圧ともからんで政府が強権的国家主義的政策に転じると,女子教育も伝統的儒教主義的女性観をふまえた,性別による天分の差に応じた教育へと変化させられた。
女子の小学校就学率は明治30年代から急速に伸び,このことがまた女子中等教育の発展を促し,高等女学校規程(1895),高等女学校令(1899)によって,男子の中学校とは別に高等女学校を設置した。しかしその教育は,良妻賢母の育成を主目的にし,教育程度も男子中等教育より数段低く,教育内容は婦徳の涵養,家事裁縫の教授などを中心としていた。さらに第1次世界大戦後は,良妻賢母主義教育とあわせて国家主義的立場から女子の国民的自覚を高める教育が重視されていった。一方,女子中等教育の普及は女子高等教育発展の素地を準備した。すでに明治30年代前半に女子英学塾(1900。現,津田塾大学),女子美術学校(1900),東京女医学校(1900。現,東京女子医科大学),日本女子大学校(1901)が民間人の力により設立されていたが,1903年に専門学校令が公布されると,私立の女子専門学校がさらに数を増していった。この間,早くも1890年に設立されていた官立東京女子高等師範学校とならんで奈良女子高等師範学校(1908)も新設された。しかし,大学令による女子の大学は戦後まで認められなかった。女性に参政権が与えられなかったことに象徴されるように,女子の教育の道が開かれたとはいえ,社会的には依然として差別的な扱いをうけていた。
一方,社会教育面では,1901年創立の愛国婦人会,34年結成の大日本国防婦人会(国防婦人会)などによる婦人教化活動が展開されたが,結果的には女性を教育面で戦争協力に動員するものとなった。また,30年以降,大学開放講座の形態で母親のための講座も開設され,思想善導もからめた家庭教育振興がはかられた。
第2次大戦後は,憲法,教育基本法,学校教育法による教育機会均等,男女共学の実現,女子大学の認可など,公的には教育における性差別はなくなり,上級学校へ進学する女子も著しく増加してきている。たしかに,高校進学率は1969年から男子を上回り,大学・短大への女子進学者も80年代に入って同一年齢層の1/3に達し,男女の大学進学率の差も年々縮小してきている。また,89年の学習指導要領で中学・高校における家庭科男女共学の教育課程が実現したように,教育内容も男女同一化の方向に進んでいる。しかし,4年制大学で学ぶ女子学生の専攻分野は人文,社会学系が圧倒的多数であり,理・工学系に学ぶ学生は少数である。それに90年代後半においても,短大生の9割は女子となっている。これらは,いずれも旧来の〈女性は家庭に〉という考え方,女性の就職の機会がいまだ不平等であることなどを反映している。
他方,社会教育のなかの女子教育,いわゆる婦人教育も戦後著しく発展してきた。1956年から生活課題に即した集団学習の場としての婦人学級,婦人講座が,64年から家庭教育に関する集団学習の場としての家庭教育学級,家庭教育講座(両親対象であるが実質的には女性対象)が,76年から女性の能力・技術の提供を通してその人間性を高める学習の場としての婦人ボランティア育成講座などが,それぞれ数多く市町村で開設されている。また,1952年結成の全国地域婦人団体連絡協議会(地婦連)など多様な女性団体による学習活動も見のがせない。しかしここでも,婦人学級に典型的にみられるように,参加者の大部分は職業をもたない主婦であり,茶華道中心の趣味,健康管理および体育・レクリエーション,家庭の生活設計などに多くの時間がさかれ,婦人の政治・社会意識を高め,また経済的自立に役だつための講座はきわめて少なかった。しかし,国際婦人年以降,女性の地位向上とかかわる問題,女性史関係の時間数が増えており,また70年代以降消費者問題に力をいれはじめた地婦連が,その後,社会参加を通じた男女差別解消や平和問題の学習・運動の輪を広げている。
ヨーロッパ諸国でも長い間女子教育は軽視されてきたが,17世紀以降,女子教育への関心が多様な文脈からふくらんでいった。まず,カトリックの聖職者フェヌロンがすぐれた伴侶養成を目的に貴族の少女の教育にのりだし,《女子教育論》(1687)を著すと,しだいに女子教育の必要性が認められていった。ついでJ.J.ルソーもまた,《エミール》(1762)のなかで女子教育論を展開したが,社会的不平等を論難し続けたにもかかわらず,彼の女子教育論は家政,育児,衛生の教育に重点がおかれ,フェヌロンのそれを超えるものではなかった。しかし,しだいに女子教育論も変化し,フランス国民議会で活躍した教育権思想の先駆者コンドルセの女子教育論は,フェヌロン,ルソーの考えを抜くものであった。彼は,《公教育の本質と目的》(1791)において,公教育は国民に対する公権力の義務としながら,女子にも男子と同一水準の教育を男女共学の形で準備すべきだと主張したからである。当時,この主張は実現されるべくもなかったが,やがて女子すべてにも教育をという動きが起こってきた。イギリス産業革命期に活躍したR.オーエンは,教育を権利としてとらえ,彼の経営する紡績工場に付設した性格形成学院(1816)は,10歳までの少年少女を工場労働から解放し,6歳までは保育の場を,10歳までは読み書き算,音楽,体操,裁縫,編物の学習の場を用意し,内外から注目された。その後,オーエンに刺激されたウィルダースピンSamuel Wilderspin(1792-1866)は1824年にインファント・スクール(幼児学校)協会を設立し,イギリス各地に幼児学校を普及させたが,これらの学校の一部はのちにイギリス公教育制度の一環に組み込まれていった。一方,アメリカでも,産業革命の進展と深くかかわりながら,男子とともに女子にも教育をという動きが,無月謝公立学校運動の父と呼ばれたH.マンらの努力で30年代から展開された。彼は,教育権思想を下敷きにしたうえで,教育の振興が男女を問わずすぐれた労働者を育て,労働者自身の幸福を保証するだけでなく,工場主にも多くの利益をもたらすことを事実に即して訴え続けた。彼の主張は多くの人々の心をとらえ,やがて70年代には男女等しく学ぶ公立初等学校がアメリカ全土に普及していった。
こうして,先進諸国で1870年代には男女共学を基本とした義務制・無償,宗派的中立の初等学校が制度化されたが,この動きの中で,以前から芽生えていた女子中等・高等教育機関も本格的に発展しはじめた。とくに20世紀後半の女子大学進学率の伸びは著しく,1975年段階で,アメリカの44%を最高に,フランス28%,イギリス17%,西ドイツでは16%に達している。とくにアメリカでは,女子向けコースに学ぶ学生が相対的に多いとはいえ,工学,農学,軍事学などを除くあらゆる分野に進出していて目をひく。
中国では,清朝末期までにミッション系女子校が一定数設立されたこともあり,中華民国成立後女子教育への関心が広まった。1912年蔡元培(さいげんばい)の指導下に公布された教育法は,初等小学校を男女共学とし,伝統的な教育上の性差別にはじめて挑戦し注目された。さらに22年,胡適,陶行知らの主張を背景にアメリカの6・3制を模した新学制が制定され,小学校では教科目による性差別も撤廃された。しかし,当時のきびしい政治経済条件下では,教育総体の発展が困難であった。やがて中華人民共和国が成立すると,教育上の性差別は基本的に排除され,すべての教育機関が女子にも開放された。その後,文化大革命期の後退はあったが,中国の女子教育は着実に発展している。70年代末の大学入学者中女子の占める比率は23%に達し,今後,女性の能力の全面的開花はいっそう進むものと思われる。
現在,国際的にも国内的にも女子教育の問直しを求める動きが高まっている。そのひとつの契機となったのが,それぞれ1979年,80年に国連で採択された〈女子差別撤廃条約〉と〈国連婦人の10年後半期プログラム〉であった。条約をふまえ,30におよぶ教育・訓練項目を国内レベルの行動計画として提起したプログラムを各国政府に迫ったからである。それは(1)女性にすべての種類・水準の教育・訓練の機会を同等に保証し,男女平等の立場での社会・政治参加,自立と家族の福祉達成,生活の質の向上を可能とすること,(2)男女役割分担の固定化を撤廃し,女性の社会参加に関するより積極的なイメージを創出すること,(3)教育・訓練を通じて,科学・技術分野への女性の参加促進の機会・便宜を拡大すること,(4)女性の在学年限を長くし,意思決定過程に影響力をもつ地位につける学習分野の選択を可能にすること,などである。これをうけて日本でも,婦人問題企画推進会議(総理大臣の私的諮問機関)が,81年に以下の提言を行った。(1)差別意識払拭のための男女平等,相互平等を学ばせる教育活動の展開,とくに社会教育の重視,女性の社会科学,自然科学,工業,技術などの分野進出を可能にする進路・職業指導,教育・訓練の実施,(2)学校教育における男女同一の教育課程での教育の推進,家庭科教育の内容改善と教員の資質向上,(3)再就職希望の女性に対する職業関係情報や専門知識・技術習得の機会等の提供,女性の多様な要求にこたえる職業訓練施設などの整備,(4)差別的社会慣習打破のため,幼時から男女平等,相互協力を基本とするしつけが行える家庭教育に関する両親の学習機会・活動の充実,などである。同時に,民間の幅広い婦人団体からも同様な決議,提言などがなされているが,いずれも,従来までの女子教育のあり方をかなり変更する内容を含んでおり,今後が注目される。
→男女共学 →婦人参政権運動
執筆者:千野 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…19世紀に入って広範な女性をひきつけた慈善事業が土台となって,婦人参政権運動をはじめとし,女性の社会的活動の機会拡大のための運動,女性の人権のための運動が展開された。女子教育を要求する運動は,没落階級の女性の救済として始められ,1841年には,住込みの家庭教師(ガバネスgoverness)として働く女性のために〈家庭教師慈善協会〉が設立され,女性の高等教育機関として,48年にJ.F.D.モーリスらによってロンドンにクィーンズ・カレッジ,49年にリードElizabeth Reidによってベドフォード・カレッジが開設された。こうした運動のうえにアカデミズムの牙城オックスフォード大学,ケンブリッジ大学,ロンドン大学への入学を要求する女性があらわれ,とくに医学を志す女性はさまざまな迫害と闘いながら,教育の機会均等のために努力をした。…
…〈男は外,女は内〉とする性別役割分業論を支えに,第2次大戦中まで日本の女子教育がその定着に力を注いだ女性像。そのため戦前の女子教育は良妻賢母主義教育ともいわれた。…
※「女子教育」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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