成田為三 (なりたためぞう)
生没年:1893-1945(明治26-昭和20)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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成田 為三
ナリタ タメゾウ
大正・昭和期の作曲家
- 生年
- 明治26(1893)年12月15日
- 没年
- 昭和20(1945)年10月29日
- 出生地
- 秋田県秋田郡森吉町米内沢
- 学歴〔年〕
- 東京音楽学校〔大正6年〕卒
- 経歴
- 在学中の24歳のとき「浜辺の歌」を作曲。卒業後ドイツに4年間留学。帰国後、国立音楽大学教授などを歴任。また大正7年に鈴木三重吉の創刊した「赤い鳥」を通じて童謡運動に参加し、「歌を忘れたカナリヤ」など多くの童謡を作曲。著書に「童謡の起源」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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成田為三
なりたためぞう
(1893―1945)
作曲家。秋田県生まれ。1914年(大正3)東京音楽学校甲種師範科に入学、山田耕筰(こうさく)に師事。17年、林古渓(こけい)作詞の『浜辺(はまべ)の歌』に作曲。鈴木三重吉(みえきち)の唱導した童謡運動に参加し、西条八十(やそ)が『赤い鳥』に発表(1918)した『かなりや』に作曲(1919)したのをはじめとして、以後芸術性の高い創作童謡や歌曲を数多く発表した。22年からドイツに留学し、帰国後は対位法などの紹介、教授にも努めた。主著に『対位法』(1929)、『和声学』(1935)、『楽器編成法』(1937)など。
[船山 隆]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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成田為三 なりた-ためぞう
1893-1945 大正-昭和時代前期の作曲家。
明治26年12月15日生まれ。山田耕筰(こうさく)に師事,東京音楽学校(現東京芸大)在学中に林古渓(こけい)作詞の「浜辺の歌」を作曲する。のち鈴木三重吉の雑誌「赤い鳥」の童謡運動に参加,大正8年から西条八十(やそ)の「かなりや」などおおくの童謡を作曲した。昭和20年10月29日死去。53歳。秋田県出身。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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成田 為三 (なりた ためぞう)
生年月日:1893年12月15日
大正時代;昭和時代の作曲家
1945年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の成田為三の言及
【童謡】より
…鈴木三重吉が〈子供たちの学校の唱歌なぞが,その歌章と附曲と二つながら,いかに低俗な機械的なものであるかといふことは,最早罵倒するにさへ価しない〉と述べているように,徹底した学校の唱歌の批判の上に立っていた。作曲は初め[成田為三]があたり,次いで[山田耕筰]が加わり[弘田竜太郎],藤井清水(1889‐1944),草川信(1893‐1948),中山晋平ら当時の第一級の音楽家が参加していた。詩がわらべうたなどの日本の伝統の上に立とうとしていたのに対し,曲は西洋音楽を基礎とし伝統とはほど遠いものであった。…
※「成田為三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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