作曲家,指揮者。東京出身。1904年東京音楽学校に入学。岩崎小弥太から奨学金を受け,10年初めから4年間ベルリンの王立高等音楽学校に留学。帰国後まもなく岩崎の主催する東京フィルハーモニー会に管弦楽部が創設され,その指揮をゆだねられたが,6回の定期演奏会を開いただけで解散。次いで小山内薫と〈新劇場〉を結成,他方スクリャービンの影響の濃い一連のピアノ小品〈プチ・ポエム〉を作曲して自ら演奏会を開く。さらに17年12月から1年半アメリカに滞在し,カーネギー・ホールで自作の交響曲《かちどきと平和》(1912),交響詩《暗い扉(と)》《曼陀羅(まだら)の華》(ともに1913)などを取り上げて2回の演奏会を指揮した。
山田が最も精力的に創作活動を展開したのは1920年前後の数年間である。この頃《澄月集》《AIYANの歌》《幽韻》などの連作歌曲を発表。またドイツ留学中のR.ワーグナー,R.シュトラウス,ドビュッシー,ストラビンスキーらの作品体験がこの時期に至ってようやく消化され,総合芸術(楽劇《堕ちたる天女》1913?)から融合芸術(舞踊詩および舞踊詩劇。代表作《青い焰》1916,《マリア・マグダレーナ》1916,《野人創造》1922)への進展を示す。さらに北原白秋とともに創刊した雑誌《詩と音楽》誌上で〈音楽の法悦境〉(立体音楽堂の構想)について説く。再び交響楽運動に取り組み,ロシア人を招いて〈日露交驩交響楽演奏会〉(1925)を実現,また〈日本交響楽協会〉を組織して予約定期演奏会を26年に開始。しかし同年9月近衛秀麿ら多くの主要な団員が脱退したために再度挫折せざるをえなかった。27年から自作の《童謡百曲集》を出版,この中に《赤とんぼ》《からたちの花》《この道》《あわて床屋》など彼の有名な童謡の多くが収録されている。
30年代以降,山田の音楽的関心はおもにオペラと映画音楽に向けられる。すでに1920年に創立していた日本楽劇協会の運営に力を注ぎ,29年楽劇《堕ちたる天女》,40年オペラ《夜明け》(1940。のちに《黒船》と改題)の上演を実現したほか,外国作品も上演した。また日独合作映画《新しき土》(1937)の音楽を担当した。第2次大戦中は音楽挺身隊を結成して各地に演奏旅行し,また日本音楽文化協会会長を務めた。48年脳溢血のため半身不随になったが再起して《天理教讃頌譜》(1956),オペラ《香妃》(未完)を作曲。56年文化勲章受章。山田の自筆譜を含む旧蔵書は遠山音楽財団〈山田耕筰文庫〉に保管されている。
執筆者:後藤 暢子
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大正・昭和期の作曲家,指揮者
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(秋山邦晴)
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作曲家。明治19年6月9日、東京に生まれる。関西学院を経て1908年(明治41)東京音楽学校本科声楽科卒業、岩崎小弥太(こやた)の援助を受けて10年から13年ベルリン高等音楽学校に留学し、作曲を学ぶ。帰国後15年(大正4)に岩崎主宰の東京フィルハーモニー会内に管弦楽部を組織・指揮(翌年解散)、20年には日本楽劇協会をおこして、日本における交響楽やオペラの確立を目ざした運動を進める。また22年北原白秋(はくしゅう)と『詩と音楽』を創刊、詩と音楽の融合を図り、日本語の語感を生かした歌曲の普及による国民音楽樹立運動をおこすなど、生涯にわたって日本の音楽界の指導的役割を果たし続けた。36年(昭和11)フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受け、42年に芸術院会員、56年に文化勲章を受章。昭和40年12月29日没。
その作風は後期ロマン派の流れをくむもので、作品はオペラ、交響曲、交響詩、歌曲、童謡など多数。代表作に交響曲『かちどきと平和』(1912)、交響詩『曼陀羅(まんだら)の華(はな)』(1913)、オペラ『堕(お)ちたる天女』(1929)、『黒船』(1940)、歌曲『六騎』(1922)、『からたちの花』(1925)、『この道』(1927)、三木露風作詞の『赤とんぼ』(1927)などがある。
[船山 隆]
『山田耕筰著『はるかなり青春のしらべ――自伝/若き日の狂詩曲』(1985・かのう書房)』
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1886.6.9~1965.12.29
大正・昭和期の作曲家・指揮者。東京都出身。1908年(明治41)東京音楽学校卒。10年ベルリンに留学。14年(大正3)帰国後,東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設,日本楽劇協会・日本交響楽協会の設立など,日本の洋楽揺籃期にオーケストラやオペラの普及に意欲的な活動を行う。第2次大戦後,戦時中の行動から,「音楽戦犯論争」渦中の人となった。51年(昭和26)山田耕筰音楽賞を設立。56年文化勲章受章。作品は,交響曲「かちどきと平和」,歌劇「夜明け」,歌曲「赤とんぼ」「からたちの花」「この道」。
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【日本】
日本における20世紀音楽の展開は,欧米とはまったく異なる様相を呈している。日本の〈洋楽〉の最初の本格的な作曲家山田耕筰は,ベルリン留学中の1912年に,日本の最初の交響曲《かちどきと平和》を作曲した。この交響曲で西洋の18,19世紀の作曲技法を身につけた山田は,R.シュトラウス,スクリャービン,ドビュッシーらの作曲技法に興味をもち,西洋の19世紀末から20世紀初頭にかけての様式に影響を受けた作品,音詩《曼陀羅(まだら)の華》(1913),舞踊詩劇《マリア・マグダレーナ》(1916)などを発表した。…
…鈴木三重吉が〈子供たちの学校の唱歌なぞが,その歌章と附曲と二つながら,いかに低俗な機械的なものであるかといふことは,最早罵倒するにさへ価しない〉と述べているように,徹底した学校の唱歌の批判の上に立っていた。作曲は初め成田為三があたり,次いで山田耕筰が加わり弘田竜太郎,藤井清水(1889‐1944),草川信(1893‐1948),中山晋平ら当時の第一級の音楽家が参加していた。詩がわらべうたなどの日本の伝統の上に立とうとしていたのに対し,曲は西洋音楽を基礎とし伝統とはほど遠いものであった。…
…西洋音楽は学校教育にもとりいれられ,一般の人々の間に急速に普及することになった。 東京音楽学校で学んだ山田耕筰は,1910年から13年までドイツのベルリン王立高等音楽学校に留学し,声楽や作曲を学びながら,オペラやオーケストラなどの公演に接し,帰国後に本格的な音楽活動を開始した。山田は15年に東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設,24年に日本交響楽協会を組織し,26年からは定期演奏会を開始するなど,日本のオーケストラ活動の基礎をつくり上げた。…
※「山田耕筰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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