山田耕筰(読み)ヤマダコウサク

デジタル大辞泉 「山田耕筰」の意味・読み・例文・類語

やまだ‐こうさく〔‐カウサク〕【山田耕筰】

[1886~1965]作曲家。東京の生まれ。ドイツに留学し、作曲法を学ぶ。日本で初めて交響楽団を組織し、交響楽オペラの興隆に尽力。また、日本語の特徴を生かした多くの歌曲を作曲した。文化勲章受章。作品に「赤とんぼ」「この道」「からたちの花」など。

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精選版 日本国語大辞典 「山田耕筰」の意味・読み・例文・類語

やまだ‐こうさく【山田耕筰】

  1. 作曲家。東京出身。歌曲・オペラ・交響曲の作曲・指揮をはじめ幅広く活躍、日本の近代音楽の確立につくすとともに、童謡運動新民謡運動など日本の国民音楽の創造にも尽力。作品に、歌曲「幽韻」「病める薔薇」、童謡「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」など。昭和三一年(一九五六)文化勲章受章。明治一九~昭和四〇年(一八八六‐一九六五

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改訂新版 世界大百科事典 「山田耕筰」の意味・わかりやすい解説

山田耕筰 (やまだこうさく)
生没年:1886-1965(明治19-昭和40)

作曲家,指揮者。東京出身。1904年東京音楽学校に入学。岩崎小弥太から奨学金を受け,10年初めから4年間ベルリンの王立高等音楽学校に留学。帰国後まもなく岩崎の主催する東京フィルハーモニー会管弦楽部が創設され,その指揮をゆだねられたが,6回の定期演奏会を開いただけで解散。次いで小山内薫と〈新劇場〉を結成,他方スクリャービンの影響の濃い一連のピアノ小品〈プチ・ポエム〉を作曲して自ら演奏会を開く。さらに17年12月から1年半アメリカに滞在し,カーネギー・ホールで自作の交響曲《かちどきと平和》(1912),交響詩《暗い扉(と)》《曼陀羅(まだら)の華》(ともに1913)などを取り上げて2回の演奏会を指揮した。

 山田が最も精力的に創作活動を展開したのは1920年前後の数年間である。この頃《澄月集》《AIYANの歌》《幽韻》などの連作歌曲を発表。またドイツ留学中のR.ワーグナー,R.シュトラウス,ドビュッシー,ストラビンスキーらの作品体験がこの時期に至ってようやく消化され,総合芸術(楽劇《堕ちたる天女》1913?)から融合芸術(舞踊詩および舞踊詩劇。代表作《青い焰》1916,《マリア・マグダレーナ》1916,《野人創造》1922)への進展を示す。さらに北原白秋とともに創刊した雑誌《詩と音楽》誌上で〈音楽の法悦境〉(立体音楽堂の構想)について説く。再び交響楽運動に取り組み,ロシア人を招いて〈日露交驩交響楽演奏会〉(1925)を実現,また〈日本交響楽協会〉を組織して予約定期演奏会を26年に開始。しかし同年9月近衛秀麿ら多くの主要な団員が脱退したために再度挫折せざるをえなかった。27年から自作の《童謡百曲集》を出版,この中に《赤とんぼ》《からたちの花》《この道》《あわて床屋》など彼の有名な童謡の多くが収録されている。

 30年代以降,山田の音楽的関心はおもにオペラと映画音楽に向けられる。すでに1920年に創立していた日本楽劇協会の運営に力を注ぎ,29年楽劇《堕ちたる天女》,40年オペラ《夜明け》(1940。のちに《黒船》と改題)の上演を実現したほか,外国作品も上演した。また日独合作映画《新しき土》(1937)の音楽を担当した。第2次大戦中は音楽挺身隊を結成して各地に演奏旅行し,また日本音楽文化協会会長を務めた。48年脳溢血のため半身不随になったが再起して《天理教讃頌譜》(1956),オペラ《香妃》(未完)を作曲。56年文化勲章受章。山田の自筆譜を含む旧蔵書は遠山音楽財団〈山田耕筰文庫〉に保管されている。
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20世紀日本人名事典 「山田耕筰」の解説

山田 耕筰
ヤマダ コウサク

大正・昭和期の作曲家,指揮者



生年
明治19(1886)年6月9日

没年
昭和40(1965)年12月29日

出生地
東京

学歴〔年〕
東京音楽学校(現・東京芸術大学)声楽科〔明治41年〕卒,ベルリン高等音楽学校卒

主な受賞名〔年〕
レジオン・ド・ヌール勲章〔昭和11年〕,朝日文化賞(昭15年度)〔昭和16年〕,NHK放送文化賞(第1回)〔昭和24年〕,文化功労者〔昭和29年〕,文化勲章〔昭和31年〕

経歴
明治43年ベルリンに留学。ベルリン高等音楽学校でカール・レオポルト・ヴォルフに師事。留学中はR.ワグナー、J.シュトラウスの作品に深く傾倒。卒業制作に日本人による初めての交響曲「かちどきと平和」、合唱と管弦楽のための「秋の宴」を作曲。大正3年帰国。同年日本で最初の交響楽団、東京フィルハーモニーを組織し、帝国劇場などで自作を発表。翌年解散。5年小山内薫と共に新劇場を結成。9年日本楽劇協会を発足させてオペラ運動を興し、11年北原白秋と雑誌「詩と音楽」を創刊。以後白秋の詩による歌曲「ペイチカ」「待ちぼうけ」など多数発表。13年日本交響楽協会(NHK交響楽団の母体)を創設して全国を巡演、交響楽の普及にもつとめた。その間、アメリカ、フランス、ソ連で自作を発表。昭和19年日本音楽文化協会会長に就任。23年脳溢血で左半身不随となるが再起。38年頃まで作曲活動を続け、教科書の編纂などにもたずさわった。この間25年日本指揮者協会設立。歌曲、オペラ、映画音楽などあらゆる音楽分野におよぶ創作活動だけでなく交響楽、オペラの普及など、日本の洋楽への貢献は大きい。生涯で声楽曲約700曲、器楽曲約160曲、舞台音楽など約40曲、団体歌約500曲と数多く作曲したが、とくに一般には歌曲「赤とんぼ」「この道」「からたちの花」などが有名。平成8年生誕110年を記念した14枚組のCD全集「山田耕筰の遺産」が発売。

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百科事典マイペディア 「山田耕筰」の意味・わかりやすい解説

山田耕筰【やまだこうさく】

作曲家,指揮者。東京生れ。東京音楽学校を卒業後,1910年−1913年ベルリン高等音楽学校に留学しブルッフらに作曲を師事。1917年−1919年米国に滞在し,カーネギー・ホールで自作の管弦楽曲による2度の演奏会を開催。1920年日本楽劇協会,1925年日本交響楽協会(新交響楽団,のちのNHK交響楽団の母体)を設立し,指揮者として活動。ドイツやフランス近代の作品の紹介に力を注ぎ,日本音楽界に大きな功績を果たした。代表作に,日本人初の交響曲《かちどきと平和》(1912年),交響詩《曼陀羅(まんだら)の華》(1913年),オペラ《黒船》(1940年)などの大作のほか,《からたちの花》(1925年),《赤とんぼ》《この道》(ともに1927年)など多数の歌曲(歌詞は三木露風北原白秋など)がある。→交響曲近衛秀麿
→関連項目石井漠

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朝日日本歴史人物事典 「山田耕筰」の解説

山田耕筰

没年:昭和40.12.29(1965)
生年:明治19.6.9(1886)
大正から昭和にかけて,日本の現代作曲界,演奏界の土台をかたちづくった指導者。東京生まれ。明治37(1904)年東京音楽学校に入学,予科から本科声楽科,研究科へと進む。同校にはまだ作曲科がなかったためドイツへ留学。明治43年から大正2(1913)年までベルリン高等音楽院で作曲を学んだ。大正3年春の帰国後は,日本最初の交響楽団である東京フィルハーモニー管弦楽団を創設して,自作を指揮,発表。同7年にはニューヨークに渡り,カーネギー・ホールで自作管弦楽作品を演奏して,ニューヨーク近代音楽協会および全米演奏家組合の名誉会員に推挙された。また小山内薫と組んで劇団「土曜劇場」「新劇場」を創立,新劇運動に積極的にかかわった。同9年日本楽劇協会を創立,オペラの上演をこころみる。また同11年には北原白秋と共同編集の月刊『詩と音楽』誌を創刊,連作歌曲を発表。舞踊家石井漠と共に融合芸術,あるいは音楽の総合芸術化への方向を目指して舞踊詩をこころみ,日本のモダン・ダンスを創始したことも注目すべき事実であろう。 山田は交響楽運動や楽劇運動の先駆者,創作歌曲の実践者であっただけではない。さまざまな領域の可能性の場をこころみ,育成し,展開するための創造活動への行動をつづけた日本の近代芸術草創期の実践者だった。オーケストラ曲「曼陀羅の華」,交響詩「明治頌歌」,オペラ「黒船」ほか,数多い歌曲がある。昭和17(1942)年日本芸術院会員,同31年に文化勲章を受章。戦時中の行動をめぐって,戦後,山根銀二とのあいだで,音楽界では唯一の戦争責任論争が行われた。

(秋山邦晴)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山田耕筰」の意味・わかりやすい解説

山田耕筰
やまだこうさく
(1886―1965)

作曲家。明治19年6月9日、東京に生まれる。関西学院を経て1908年(明治41)東京音楽学校本科声楽科卒業、岩崎小弥太(こやた)の援助を受けて10年から13年ベルリン高等音楽学校に留学し、作曲を学ぶ。帰国後15年(大正4)に岩崎主宰の東京フィルハーモニー会内に管弦楽部を組織・指揮(翌年解散)、20年には日本楽劇協会をおこして、日本における交響楽やオペラの確立を目ざした運動を進める。また22年北原白秋(はくしゅう)と『詩と音楽』を創刊、詩と音楽の融合を図り、日本語の語感を生かした歌曲の普及による国民音楽樹立運動をおこすなど、生涯にわたって日本の音楽界の指導的役割を果たし続けた。36年(昭和11)フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受け、42年に芸術院会員、56年に文化勲章を受章。昭和40年12月29日没。

 その作風は後期ロマン派の流れをくむもので、作品はオペラ、交響曲、交響詩、歌曲、童謡など多数。代表作に交響曲『かちどきと平和』(1912)、交響詩『曼陀羅(まんだら)の華(はな)』(1913)、オペラ『堕(お)ちたる天女』(1929)、『黒船』(1940)、歌曲『六騎』(1922)、『からたちの花』(1925)、『この道』(1927)、三木露風作詞の『赤とんぼ』(1927)などがある。

[船山 隆]

『山田耕筰著『はるかなり青春のしらべ――自伝/若き日の狂詩曲』(1985・かのう書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山田耕筰」の意味・わかりやすい解説

山田耕筰
やまだこうさく

[生]1886.6.9. 東京
[没]1965.12.29. 東京
作曲家,指揮者。 1908年東京音楽学校卒業。 10年ドイツに留学。留学中に歌劇,交響曲などを作曲。 14年帰国し,翌年東京フィルハーモニー管弦楽団を組織,日本に交響楽を定着させるために活動した。また日本的な表現,日本語による歌曲を追求し,北原白秋と組んで,大正末頃までの数年間に多数のすぐれた歌曲を作曲。その間,日本の歌劇運動を推進するため,日本楽劇協会を組織する。一方,欧米でも作曲家,指揮者として活躍,36年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章受章。 42年帝国芸術院会員。 56年文化勲章受章。日本における最も傑出した作曲家であり,洋楽の開拓者とされる。主作品,歌劇『黒船』,交響曲『かちどきと平和』,歌曲『幽韻』『曼珠沙華』『からたちの花』,童謡『あわて床屋』『赤とんぼ』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田耕筰」の解説

山田耕筰 やまだ-こうさく

1886-1965 大正-昭和時代の作曲家。
明治19年6月9日生まれ。ガントレット恒子の弟。ベルリンに留学。大正4年日本初の交響楽団を組織。7年カーネギーホールで自作を指揮。9年日本楽劇協会をおこしオペラ運動をひろめる。北原白秋とくみ,「からたちの花」「この道」など多数の歌曲を作曲した。昭和11年レジオン-ドヌール勲章。31年文化勲章。昭和40年12月29日死去。79歳。東京出身。東京音楽学校(現東京芸大)卒。作品に「かちどきと平和」「黒船」など。
【格言など】人間は誕生のウブ湯を使うときは素っ裸だから,死ぬときも,一物もまとわぬ清浄な姿で墓に入れぬか(「墓無用論」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山田耕筰」の解説

山田耕筰
やまだこうさく

1886.6.9~1965.12.29

大正・昭和期の作曲家・指揮者。東京都出身。1908年(明治41)東京音楽学校卒。10年ベルリンに留学。14年(大正3)帰国後,東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設,日本楽劇協会・日本交響楽協会の設立など,日本の洋楽揺籃期にオーケストラやオペラの普及に意欲的な活動を行う。第2次大戦後,戦時中の行動から,「音楽戦犯論争」渦中の人となった。51年(昭和26)山田耕筰音楽賞を設立。56年文化勲章受章。作品は,交響曲「かちどきと平和」,歌劇「夜明け」,歌曲「赤とんぼ」「からたちの花」「この道」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「山田耕筰」の解説

山田 耕筰

東京生まれ。義兄の宣教師エドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきを受ける。1908年、東京音楽学校(現東京芸大)声楽科卒業。1910年より3年間ベルリン王立アカデミー高等音楽院(現・ベルリン芸術大 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「山田耕筰」の解説

山田耕筰
やまだこうさく

1886〜1965
大正・昭和期の作曲家・指揮者
東京の生まれ。東京音楽学校卒業後,ベルリンに留学,作曲を学ぶ。帰国後,日本最初の本格的交響楽団を結成。オペラ・交響楽団を育成し,日本の西洋音楽育ての親といわれる。1956年文化勲章受章。代表作に『からたちの花』『赤とんぼ』など。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「山田耕筰」の解説

山田 耕筰 (やまだ こうさく)

生年月日:1886年6月9日
大正時代;昭和時代の作曲家
1965年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山田耕筰の言及

【現代音楽】より


【日本】
 日本における20世紀音楽の展開は,欧米とはまったく異なる様相を呈している。日本の〈洋楽〉の最初の本格的な作曲家山田耕筰は,ベルリン留学中の1912年に,日本の最初の交響曲《かちどきと平和》を作曲した。この交響曲で西洋の18,19世紀の作曲技法を身につけた山田は,R.シュトラウス,スクリャービン,ドビュッシーらの作曲技法に興味をもち,西洋の19世紀末から20世紀初頭にかけての様式に影響を受けた作品,音詩《曼陀羅(まだら)の華》(1913),舞踊詩劇《マリア・マグダレーナ》(1916)などを発表した。…

【童謡】より

…鈴木三重吉が〈子供たちの学校の唱歌なぞが,その歌章と附曲と二つながら,いかに低俗な機械的なものであるかといふことは,最早罵倒するにさへ価しない〉と述べているように,徹底した学校の唱歌の批判の上に立っていた。作曲は初め成田為三があたり,次いで山田耕筰が加わり弘田竜太郎,藤井清水(1889‐1944),草川信(1893‐1948),中山晋平ら当時の第一級の音楽家が参加していた。詩がわらべうたなどの日本の伝統の上に立とうとしていたのに対し,曲は西洋音楽を基礎とし伝統とはほど遠いものであった。…

【日本音楽】より

…西洋音楽は学校教育にもとりいれられ,一般の人々の間に急速に普及することになった。 東京音楽学校で学んだ山田耕筰は,1910年から13年までドイツのベルリン王立高等音楽学校に留学し,声楽や作曲を学びながら,オペラやオーケストラなどの公演に接し,帰国後に本格的な音楽活動を開始した。山田は15年に東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設,24年に日本交響楽協会を組織し,26年からは定期演奏会を開始するなど,日本のオーケストラ活動の基礎をつくり上げた。…

※「山田耕筰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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