1925年製作のソビエト映画。エイゼンシテイン監督の長編第2作にあたる。当時27歳のエイゼンシテインが,政府の計画による1905年革命の20周年記念映画の1本としてつくったもので,D.W.グリフィス監督《国民の創生》(1915),オーソン・ウェルズ監督《市民ケーン》(1941)と並んで世界映画史上もっとも重要な画期的作品とされている。はじめにエイゼンシテインとニーナ・アガジャーノワ・シュトコが準備した脚本《1905年》は,革命の全般を描こうとする数百ページに及ぶものであったが,その内のわずか半ページにあたる黒海艦隊の反乱をテーマにした部分を〈五幕の悲劇〉,すなわち〈人間と蛆〉〈後部甲板上のドラマ〉〈死者からの訴え〉〈オデッサ階段〉〈艦隊との遭遇〉という構成で完成した。実際にあった歴史的事件を題材に個人ではなく集団を主人公として,中心的な役のほかは〈ティパージュtypage〉(タイプを中心とした配役)によって素人をつかい,俳優の演技よりも〈モンタージュ〉のほうが雄弁であること,〈モンタージュ〉が映像による思想の伝達手段であることを立証した。とくに,エイゼンシテインが23年に発表した〈アトラクション(吸引)のモンタージュ〉理論を具象化し,カットの組合せから生まれる〈衝突〉のイメージによって激しい動的なリズムと緊迫感を盛り上げた有名なオデッサ階段の虐殺シーンは,モンタージュの手本とされている。上映時間86分のカット数は1346。195分の《国民の創生》の1375カットに比べるまでもなく,そのモンタージュの精密さがうかがわれる。
25年の暮れにかろうじて完成したが(エイゼンシテインは映写の直前まで編集に没頭した),モスクワのボリショイ劇場でのプレミア上映ののち,ソビエトでは冷遇されて翌年から二流の劇場で公開された。しかしベルリン,ロンドン,アムステルダム,ニューヨークで熱狂的に迎えられた。またフランスではシネクラブで上映されたのち52年まで公開を禁止され,日本でも正式に公開されたのは60年代になってからである。あらゆる点で革命的な映画であったために世界の各国で手を加え改変されて上映され,オリジナル版は現在どこにも存在しないとさえいわれる。しかもエイゼンシテインが意図どおりにつくることができた映画はこれが最後であるともいわれ,その後の作品はすべて政治的圧力によって改訂させられたことはよく知られている。また,1950年には助監督だったグリゴリー・アレクサンドロフの手でE.クリオウコフの音楽を入れたサウンド版がつくられたが,エイゼンシテインが公認した音楽は1926年のベルリンのプレミアのためエドムント・マイゼルが作曲したものだけであり,それものちにこの伴奏音楽つきの自作を見て〈映画がオペラになった〉と不満を述べたと伝えられている。イギリスのドキュメンタリー映画の創始者ジョン・グリアソンがこの映画の英語版をつくり,イギリスのドキュメンタリー運動は《戦艦ポチョムキン》の最後の巻から始まったとまでいわれている。
執筆者:柏倉 昌美
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ソ連映画。1925年作品。監督セルゲイ・エイゼンシュテイン。革命後のソビエト映画の誕生を世界に告げた作品であるばかりでなく、映画史上を通じてのサイレント映画の傑作である。1905年に実際に起こったポチョムキン号の反乱に題材をとり、十月革命への先導者として反乱の水兵たちをたたえている。物語は、水兵たちと蛆(うじ)、甲板上の反乱、死者の訴え、オデッサ(現、オデーサ)の階段、艦隊の出会い、と五部構成をなしており、速いテンポ、動的な画面、力強い構図、断片的モンタージュという特徴をみせながら、記録映画的な性格をもあわせもっている。特定の主人公をもたない集団描写、立ち上がる石のライオン像などに代表される象徴的モンタージュ、動と静が交錯する緩急のリズム、革命への熱いメッセージなど、当時の興行中心の映画製作とは異質の新しさによって観客を圧倒した。なかでも、オデッサの市民がツァーの兵士たちによって虐殺される「オデッサの階段」のシーンは有名である。プロパガンダ映画の完璧(かんぺき)な例として、またモンタージュ理論の優れた例として、世界の映画人に与えた影響は大きい。日本では1959年(昭和34)の非劇場自主上映、1967年の一般公開が初上映である。オリジナル・プリントが失われたため、検閲カットによる不完全なプリントが出回っていたが、1976年ソ連本国で完全版が編集され、日本では翌年に公開された。
[岩本憲児]
『山田和夫監修『エイゼンシュテイン全集2 戦艦ポチョムキン』(1974・キネマ旬報社)』▽『山田和夫著『戦艦ポチョムキン』(1978・大月書店)』
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…モンタージュ理論とその実践である映画史上不朽の名作《戦艦ポチョムキン》によって知られるソ連の映画監督,理論家。チャップリンと並んで世界映画史上の〈天才〉,あるいは〈巨人〉といわれ,多彩な才能がレオナルド・ダ・ビンチにもたとえられたが,ソ連の政治状況の中で映画監督としては〈形式主義者〉としてきびしい批判を浴び,実作活動もままならず(実際,名声の割りには作品の数は少なく,25年間に自分の手で完成した作品はわずか6本である),その間に執筆活動に挺身し,理論家として映画芸術の発展に寄与する豊かな遺産を残している。…
…映画を純視覚的な時間芸術に還元するドイツの〈絶対映画〉や,純粋に感性的で視覚的なリズムの芸術としてのフランスの〈純粋映画〉も現れた。そして,映画の生命として発見された〈モンタージュ〉を〈映像による思想の伝達手段〉として理論化し実践したソ連で,世界の〈サイレント映画〉時代を代表する作品《戦艦ポチョムキン》(1926)がつくられた。 映画は,〈音〉をもたない30年の間に映像だけの,純粋に視覚的な〈サイレント映画〉という新しい芸術形式を完成した。…
※「戦艦ポチョムキン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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