朝日日本歴史人物事典「押坂彦人大兄皇子」の解説
押坂彦人大兄皇子
6世紀後半ごろの有力王族。敏達天皇の子。田村皇子(のちの舒明天皇)の父。天智,天武両天皇の祖父に当たるので,のちに「皇祖大兄」と呼ばれた。大和国広瀬郡城戸郷(奈良県広陵町)にあったと思われる水派宮に住んだ。母広姫(息長真手王の娘)が,実家の息長氏の経営する忍坂宮(桜井市)に住み,皇子も幼少年期をここでおくった関係から,同宮に奉仕する服属集団,忍坂部(刑部)を相続したらしい。用明2(587)年,天皇が病に倒れ,次期大王の選定が始まると,皇子は異母兄弟の竹田皇子と共に,有力な王位継承候補として注目された。用明死後の物部守屋追討戦争ではその動静が不明であり,この混乱の渦中,蘇我馬子の指令で暗殺されたとする説もある。『延喜式』は,その墓を広瀬郡の成相墓としているが,馬見古墳群中,全長17mの横穴式石室を持つ,径約60mの大形円墳,牧野古墳(奈良県広陵町)に比定する説が有力である。<参考文献>薗田香融『日本古代財政史の研究』
(遠山美都男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報