押坂彦人大兄皇子(読み)おしさかのひこひとのおおえのみこ

改訂新版 世界大百科事典 「押坂彦人大兄皇子」の意味・わかりやすい解説

押坂彦人大兄皇子 (おしさかのひこひとのおおえのみこ)

敏達天皇の第1皇子で,麻呂子(まろこ)皇子ともいう。その別名忍坂日子人太子の太子は追号。生没年不詳。母は息長真手(おきながのまて)王の女広姫。皇子は異母妹糠手姫(あらてひめ)皇女(母は伊勢の大鹿小熊(おおがのおぐま)の女菟名子(うなこ))と結婚し,舒明天皇をもうけた。また別の妃に異母妹小墾田(おはりだ)皇女がおり,その母推古天皇との関係も深かった。用明天皇没後,皇子は皇位継承の最有力候補の一人として,物部守屋・中臣勝海(なかとみのかつみ)と蘇我馬子との争いの渦中にあった。すなわち勝海は皇子の像をつくって傷つけ,その死を祈ったといわれる。その渦中で没したとも,あるいは推古朝まで生存していたともいわれるが未詳。その墓は大和国広瀬郡にあると伝えられている。なお押坂は大和国城上郡内の地名とつながりがあるが,名代(なしろ)の刑部(おさかべ)の名はこの地名につながり,刑部は皇子らの所有とみる説がある。その子舒明は押坂に葬られている。
大兄おおえ
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朝日日本歴史人物事典 「押坂彦人大兄皇子」の解説

押坂彦人大兄皇子

生年:生没年不詳
6世紀後半ごろの有力王族。敏達天皇の子。田村皇子(のちの舒明天皇)の父。天智,天武両天皇の祖父に当たるので,のちに「皇祖大兄」と呼ばれた。大和国広瀬郡城戸郷(奈良県広陵町)にあったと思われる水派宮に住んだ。母広姫(息長真手王の娘)が,実家の息長氏の経営する忍坂宮(桜井市)に住み,皇子も幼少年期をここでおくった関係から,同宮に奉仕する服属集団,忍坂部(刑部)を相続したらしい。用明2(587)年,天皇が病に倒れ,次期大王の選定が始まると,皇子は異母兄弟竹田皇子と共に,有力な王位継承候補として注目された。用明死後の物部守屋追討戦争ではその動静が不明であり,この混乱の渦中,蘇我馬子の指令で暗殺されたとする説もある。『延喜式』は,その墓を広瀬郡の成相墓としているが,馬見古墳群中,全長17mの横穴式石室を持つ,径約60mの大形円墳,牧野古墳(奈良県広陵町)に比定する説が有力である。<参考文献>薗田香融『日本古代財政史の研究

(遠山美都男)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「押坂彦人大兄皇子」の解説

押坂彦人大兄皇子
おしさかひこひとのおおえのみこ

忍坂日子人太子・麻呂古(まろこ)王とも。6世紀後半頃の人物。敏達(びだつ)天皇の皇子。母は息長真手(おきながまて)王の女広姫。舒明(じょめい)天皇の父。舒明に始まる皇統の始祖となったことから,皇祖大兄(すめみおやのおおえ)とよばれた。息長氏の勢力を背景に,允恭(いんぎょう)天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)の押坂宮と,名代(なしろ)の押坂部(おしさかべ)(刑部(おさかべ))を領有したと考えられる。敏達天皇と推古天皇との子竹田皇子とともに有力な皇位継承候補であったが,即位は実現しなかった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「押坂彦人大兄皇子」の解説

押坂彦人大兄皇子 おしさかのひこひとのおおえのおうじ

?-? 飛鳥(あすか)時代,敏達(びだつ)天皇の第1皇子。
異母妹糠手姫(ぬかてひめの)皇女との間に舒明(じょめい)天皇をもうけた。用明天皇没後,有力な皇位継承者として,物部(もののべ)氏らに擁立されたらしいが,その後のことは不明。別名に麻呂子皇子。

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