改訂新版 世界大百科事典 「押坂彦人大兄皇子」の意味・わかりやすい解説
押坂彦人大兄皇子 (おしさかのひこひとのおおえのみこ)
敏達天皇の第1皇子で,麻呂子(まろこ)皇子ともいう。その別名忍坂日子人太子の太子は追号。生没年不詳。母は息長真手(おきながのまて)王の女広姫。皇子は異母妹糠手姫(あらてひめ)皇女(母は伊勢の大鹿小熊(おおがのおぐま)の女菟名子(うなこ))と結婚し,舒明天皇をもうけた。また別の妃に異母妹小墾田(おはりだ)皇女がおり,その母推古天皇との関係も深かった。用明天皇の没後,皇子は皇位継承の最有力候補の一人として,物部守屋・中臣勝海(なかとみのかつみ)と蘇我馬子との争いの渦中にあった。すなわち勝海は皇子の像をつくって傷つけ,その死を祈ったといわれる。その渦中で没したとも,あるいは推古朝まで生存していたともいわれるが未詳。その墓は大和国広瀬郡にあると伝えられている。なお押坂は大和国城上郡内の地名とつながりがあるが,名代(なしろ)の刑部(おさかべ)の名はこの地名につながり,刑部は皇子らの所有とみる説がある。その子舒明は押坂に葬られている。
→大兄(おおえ)
執筆者:原島 礼二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報