持田村
もちだむら
[現在地名]行田市持田一―五丁目・城南・城西一丁目・同三―五丁目・駒形一―二丁目・深水町・持田、北足立郡吹上町鎌塚、熊谷市太井
北は忍川、東は忍城に接し、北部を熊谷行田道が東西に通じる。地下一メートルに条里遺構や古墳時代後期の集落遺跡が埋没しているとみられる。中世は糯田郷に含まれた。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍として持田右馬之助(永五〇貫文)らがみえる。かれらは当地出身の武士という(風土記稿)。村内には宝蔵寺に延応二年(一二四〇)阿
種子・宝治二年(一二四八)弥陀一尊種子、また正覚寺に寛元二年(一二四四)荘厳体弥陀一尊種子と、三基の板碑が残る。一五世紀後半の成田氏の忍築城に際して囲込まれた城地の五分の三は当村の地といい(郡村誌)、また持田・谷之郷入会の地であったともいう(風土記稿)。
寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末まで変わらず。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高三千七〇九石余。田園簿によると高三千七七一石余、反別は田方三一五町八反余・畑方二一町五反余。
持田村
もちだむら
[現在地名]松山市持田町一―四丁目・南持田町・北持田町・南町一丁目・紅葉町・岩崎町二丁目・昭和町・勝山町一―二丁目・旭町・錦町・此花町・築山町・新立町・湯渡町
松山平野のほぼ中央平坦部に位置する農村。東は道後村、西は城下町に接し、南は樽味・枝松・小坂の三村と石手川で境し、北は道後・壱万の両村に隣接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「持田村 小川有」とある。
この村から弥生前期に属する木葉文土器、後期の土器が発掘され、また近郷に水田耕作の遺跡が存在する。古代には温泉郡井上郷(和名抄)に属したと推定される。中世には河野氏の支配下にあった。近世に入り加藤嘉明・蒲生忠知の治世を経て、寛永一二年(一六三五)以降松平氏による松山藩領となった。
持田村
もちだむら
[現在地名]各務原市蘇原持田町・蘇原北山町・蘇原新生町・蘇原清住町など
北山南東麓の丘陵地に位置する。各務郡に属し、南は東門村・古市場村、北と東は須衛村。牟田とよばれる湿田が多い。天正一七年(一五八九)の野口村野帳(安積文書)に「もちた」「もち田」とみえる。慶長六年(一六〇一)の彦坂元正等連署知行目録(菅沼文書)に「弐百三拾五石壱斗五升 もち田村」とみえ、同年菅沼定仍(伊勢長島藩)領となる。
持田村
もちだむら
[現在地名]高鍋町持田
小丸川を挟んで高鍋村の北に位置し、同川河口左岸の沖積低地と北に続く標高五〇―六〇メートルの洪積台地に立地する。北は平田村(現川南町)、西は岸上村、東は日向灘に面する。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高五八四石余。天保郷帳では高八四一石余。旧高旧領取調帳では高二千九九石余となっているが、この高は岸上村の高を含んだものと思われる。
持田村
もちでんむら
[現在地名]婦中町持田・ねむの木
神通川中流左岸に位置し、北は蔵島村、南は十五丁村。村名の由来は餅田・圃子田の遺名とも考えられるが、明らかでない(婦中町史)。正保郷帳では高三二三石余、田方二〇町八反余・畑方七反余、新田高一六六石余は「十五丁分共」と注記される。享保六年(一七二一)の高三八一石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高三七五石余・定免三ツ五歩四厘、新田高四二石余・平均免一ツ二歩五厘余、小物成は銀納柳差役一匁四分八厘・鮎川役七匁三分四厘・鱒川役三匁八分・鮭川役五匁八分七厘・川原役一匁八分七厘・舟役五匁(高物成品々手鏡)。
持田村
もちだむら
[現在地名]野津町老松 持田
池原村の南東にあり、南西は中山村。村名は地元では「もった」とよぶ。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には持田村分と桐木村など四ヵ村分が一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高一五九石余。香野村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一五六石余・出来高三石余、田方一〇八石余・畑方五一石余。正保郷帳に村名は記載されず、中山村分に含まれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 