摩街道
さつまかいどう
都城からは福山道・今町道・梅北道・安久道・寺柱道・梶山道・東道・安永道・財部道・金田道などの支道が放射状に走っていたが(都城市史)、幹線として佐土原城下(現佐土原町)へ向かう薩摩街道と宮崎へ向かう鹿児島街道があった。薩摩街道は大隅国から都城に入り、高木村(現都城市)を通って高城郷桜木村―穂満坊村―石山村―有水村(以上現高城町)を経て国見峠を越え、高岡郷去川―浦之名村―内山村―高岡町(以上現高岡町)―嵐田村―本庄村(以上現国富町)を経て佐土原城下に至る。途中去川(現大淀川)・浦之名川などを渡るが、去川のみ船渡しで他は歩渡であった(元禄国絵図)。鹿児島街道は桜木村で薩摩街道から分岐して東方へ向かい、山之口郷山之口村(現山之口町)―田野村(現田野町)―今泉村―船引村―加納村(以上現清武町)―源藤村(現宮崎市)を経て宮崎に至る。なお薩摩街道の本庄村―佐土原城下間は肥後街道と重なり、鹿児島街道の加納村―宮崎間は飫肥街道と重複する。また鹿児島藩では薩摩街道を高岡筋とよんでいた。
薩摩街道の起りは戦国時代伊東氏が都於郡(現西都市)や領内からの物資を運送するために道路を開削したことに始まるという。それが後世薩摩街道と称されるようになったが、街道として整備されるのは近世に入ってからで、関外四ヵ郷を統轄する高岡郷地頭仮屋への通行を円滑に行うためであった。天正一二年(一五八四)一月八日、鹿児島へ向け出発した宮崎地頭上井覚兼は同夜「佐理川」に一宿し、翌早朝に敷禰(現鹿児島県国分市)に向かっている。
摩街道
さつまかいどう
筑後国をほぼ南北に縦断して肥後国南関(現熊本県南関町)から薩摩国に至る主要道。別名を坊津街道・肥後街道といい、久留米藩や薩摩鹿児島藩・肥後熊本藩・肥後人吉藩などが参勤交代に利用した道(「諸大名方当御領通行の節取計方定格」公用見聞録)として知られ、参府往還とも称された。元禄筑後国絵図では松崎(現小郡市)―宮地(現久留米市)―久留米城下―羽犬塚(現筑後市)―瀬高上庄―瀬高下庄(現瀬高町)―原町(現山川町)の馬次を経て肥後国に続く道である。時期は不明であるが、久留米藩は松崎と宮地渡を結ぶ道の途中にある光行村(現小郡市)から神代渡(筑後川の渡しで、現在の北野町と久留米市の境)に至る道に街道を付替え、松崎―府中(現久留米市)―羽犬塚のコースが肥後・薩摩からの参府往還(薩摩街道)となる(天保九年「有馬玄蕃頭領分之内脇往還筋書付」有馬家文書)。
摩街道
さつまかいどう
薩摩街道と日向街道は、熊本城下新一丁目御門前の札の辻を起点とし、新一丁目・新二丁目・新三丁目を通り三丁目御門から古町に出る。「薩陽往返記事」はこの先を「此見付を出れば又外町なり(古町と云)、(中略)隈本城下は九州繁花の土地にて、商家軒を連ねたり。継所の辺の見付門を出れば欄干葱宝珠の橋あり、長さ十四五間あり」と記している。この橋が長六橋(現熊本市)で慶長六年(一六〇一)架橋と伝える。長六橋の外は府外であったが、寛永二〇年(一六四三)通町の職人を移して迎町を開き府中に編入した。
長六橋を渡り宝町を南下した河尻口放牛地蔵(以上現熊本市)から薩摩街道は右に折れて日向往還と分れる。これから南は慶安四年(一六五一)の肥後国大道小道等調帳(県立図書館蔵)によれば、「熊本ヨリ川尻迄弐里」に坪井川・白川があり、「川尻ヨリ宇土段原町迄弐里」の間に万前寺川・大渡り川・廻江川・卅町川・石之瀬川・松原川が、「段原町ヨリ小川町迄三里七町拾間」の間に五りやう川・大野川・久具川・浅川が、「小川町ヨリ八代本町迄三里弐拾八町五拾間」には吉本住吉川・横枕川・水無川が、「八代本町ヨリ日奈久町迄弐里廿町卅四間」には徳淵・求麻川・るいさう川・大坪川があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 