高岡郷
たかおかごう
現高岡町・国富町・綾町にまたがり、大淀川とその支流本庄川流域一帯に位置する。鹿児島藩外城の一。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原から帰陣した島津義弘は、領境の警備強化のため内山城に代えて新たに久津良名(ともに現高岡町)の地を外城に取立て、城を天ヶ城、外城を高岡と称した(高岡名勝志)。このとき飯田・八代・内山の三郷を一つにまとめ高岡郷としたといい(列朝制度)、去川関(現高岡町)の外に位置する関外四ヵ郷の中心となった。「高岡名勝志」によれば、このとき穆佐郷のうち高浜村(現高岡町)、倉岡郷のうち花見村(現同上)、綾郷のうち入野村(現綾町)、紙屋郷のうち上畑村(現同上)、野尻郷のうち浦之名村(現高岡町)が高岡郷に付けられたという。所属村は花見・高浜・飯田・浦之名・五町・内山(現同上)、入野、向高・田尻・深年・八代南俣・八代北俣(現国富町)の一二ヵ村(同書)。なお延宝九年(一六八一)紙屋郷が廃止されたおり、上畑村は入野村のうちへ編入されている。「列朝制度」に「麓被召建、右御取建以前ニは、諸士も、内山・飯田・八代え罷在候処、高岡可御取立之節、府本え御引移、且又、鹿児島・伊集院又は佐土原より、段々諸士被召移」とあり、多くの郷士が鹿児島藩領の各地より移住させられた。それら郷士の出身地をみると、移住五一六家のうち薩摩伊集院出身が最も多く、次いで佐土原(現佐土原町)・高原(現高原町)の順で、出身町村は薩摩・大隅・豊後・肥後・日向各国の五〇ヵ所以上にまたがっていた(嘉永四年「高岡郷被召立候節所々より移来人数」松岡家文書)。
高岡郷
たかおかごう
市川中流域西岸に位置する中世の郷で、「播磨国風土記」にみえる神前郡高岡里の里名を継承する。「園太暦」文和二年(一三五三)九月二〇日条によると、三条公世が高岡郷を知行していたが、このたび没収されたと洞院公賢に告げている。高岡郷は北部地域をさす北条と南部地域をさす南条に分れている。その一部が高岡庄として立券され、残る部分は公領であった。寛喜二年(一二三〇)二月二〇日、播磨守護小山朝政は高岡北条郷などを嫡孫長村に譲っている(「小山朝政譲状」小山文書)。
高岡郷
たかおかごう
「和名抄」東急本に「多加乎加」と訓を付す。中世に皇室領高岡郷が成立する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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