教会合同(読み)きょうかいごうどう

改訂新版 世界大百科事典 「教会合同」の意味・わかりやすい解説

教会合同 (きょうかいごうどう)

唯一の聖なる教会を目ざすキリスト教の統一運動。とくに20世紀になってプロテスタント諸教会によって始められ,その後,カトリック教会東方正教会などの参画を得て進められている現代の統一運動はエキュメニズムecumenism(世界教会運動)と呼ばれる。

 世界の大宗教のうちキリスト教ほど異端と分派が多数生まれ,それが政治的,社会的な抗争につながった宗教はないといってよい。初期の教会は,使徒の権能を受け継ぐ司教職の確立とローマ帝国の行政区分に準じた教会管区の設立とにより,ひとつの統一体として成立しえた。けれどもキリスト教の公認(313)の前後から,ドナトゥス派アリウス派などの異端運動が表面化した。もとよりある傾向を異端と断定することそのものが政治的な行為であるが,教会全体の会議(公会議)では異端とされた集団の排除も政治的に,すなわち世俗の権力の力を借りて行われた。カルケドン公会議(451)で教義の根幹となるべきキリスト論が確立されると,〈カルケドン信条〉に立脚するいわゆるカルケドン派教会からの,ネストリウス派と単性論派の分離は決定的となった。だが中世初期までのローマ皇帝は,エジプトシリアなど帝国の重要な属州の離反を防ぐため,さまざまの妥協策を用いて単性論派の引き戻しを画策した。これは教会合同の試みといってよいが,この種の工作はすべて失敗した。西方ではアフリカ,スペイン,ガリア,フランクなどの教会がしだいにローマ教皇の権威に従い,のちのローマ・カトリック教会を形成することになった。他方,東方では7世紀中葉までにアレクサンドリアアンティオキアエルサレムなどの由緒ある教会がイスラム・カリフ王朝の支配下に入って勢力を失い,コンスタンティノープルのビザンティン教会のみがローマ教会と対峙した。この両教会は1054年に決定的に分離した。

 ローマ教会はビザンティン帝国がオスマン・トルコの攻撃にさらされ弱体化したのに乗じて教会合同を呼びかけ,第2リヨン公会議(1274)とフェラーラ・フィレンツェ公会議(1438-39)が開かれた。後者においてはコンスタンティノープル総主教を首長とするビザンティン教会ならびにその管轄下の教会,さらに若干の非カルケドン派教会との合同が成立した。だがその決議の結果は各教会内部では受けいれられず,事実上合同は失敗した。まもなくコンスタンティノープルの陥落によってビザンティン教会がオスマン帝国の支配下に入ったため,合同工作は不可能となった。しかしローマ教会は,ネストリウス派教会,また単性論派教会に属するアルメニア教会,キリスト単意論を採用していたレバノンのマロン派教会などとの合同工作を進めた。最低限の条件は,各教会にその典礼と慣行との保持を認めるかわりに,異端の教説を捨て,ローマ教皇の首位権を認めさせることにあった。マロン派教会は早くも1182年にローマ教皇への帰順を誓ったが,最終的な合同が成立するのは18世紀前半のことである。16世紀の宗教改革によってローマ・カトリック教会そのものからプロテスタント諸教会が分離すると,ローマ教会は,反(対抗)宗教改革の一環として,東方の諸教会に対する合同工作をさらに推進した。それはポーランド領の正教会(ブレストの合同,1595),単性論派のコプト教会とエチオピア教会,ネストリウス派に属するインドのトマス派教会にまで及んだ。その結果として,一般に各教会の分裂が生じ,ローマ教皇の首位権を認める少数派がローマ教会の援助のもとに独立した。この種の教会を東方典礼カトリック教会,合同教会または帰一教会などと呼ぶが,実際の勢力は小さい。なお,宗教改革ののちルター派とカルバン派はコンスタンティノープル総主教と接触をはかり,東方正教会を引き入れようとしたが,結局,失敗に終わった。中世から近世にかけてのカトリック側の合同工作は,帰一教会といった名称が示すように,一方的なものであり,その際に活動したイエズス会をはじめとする修道会は各地の教会で深刻な抗争を引きおこした。したがってカトリック側の合同工作は,近代のエキュメニズムの精神とは無縁なものであったといえよう。

 近代の教会合同運動の主導権を握ったのはプロテスタント諸教会である。そのきっかけは外国宣教がとくに盛んになった19世紀に,布教地において各教会の宣教師がそれぞれの立場で福音を説いたため,混乱とキリスト教そのものに対する不信とを招いたことにある。かくして1910年にエジンバラ世界宣教会議が開かれ,プロテスタント諸教会の代表約1200名が一堂に会して宣教の問題を討議した。これが近代のエキュメニズムの第一歩とされる。なおそれ以前にも聖公会がランベス会議(1888)で教会合同のための〈ランベス四綱領〉を発表している。エジンバラ会議の結果,常設の機関として国際宣教協議会(1921),生活と実践委員会(1925),信仰と職制委員会(1927)が成立した。そのほか,YMCAなど青年および学生の団体の活動も無視しえない。第2次大戦後の1948年にアムステルダムで世界教会協議会(WCC。World Council of Churchesの略)が結成された。これには大部分のプロテスタント諸教会のほか東方正教会,非カルケドン派東方諸教会の一部も加わり,エキュメニズム推進の最有力機関として各教会間の協力の事業を行っている。カトリック教会はWCCの活動には加わらなかったが,62年教皇ヨハネス23世が第2バチカン公会議を招集し,そのひとつの目標として教会合同を掲げた。この公会議はカトリック教会の変容ないし近代化をはかるものであったが,同時にエキュメニズムの運動にはずみをつけることになった。65年にローマ教皇とコンスタンティノープル総主教は1054年の相互の破門を撤回しあった。また1963年よりカトリック教会もWCCにオブザーバーを派遣することになった。しかし以上のような歩みにもかかわらず教会合同,すなわち唯一の聖なる教会が近い将来において成立する見通しはまったくない。この運動の最大の貢献はキリスト教の各教会教派のあいだにエキュメニズムの精神なるものを浸透させ,例えば聖書の本文校訂と翻訳といった共同の事業を推進させた点にある。
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百科事典マイペディア 「教会合同」の意味・わかりやすい解説

教会合同【きょうかいごうどう】

英語ecumenism,ecumenical movementなどの訳で,〈世界教会運動〉とも。その長い歴史の中で多くの教派が分立するに至ったキリスト教世界の統一運動で,プロテスタントの主導により20世紀以降本格化した。画期は1910年のエディンバラ世界宣教会議開催と1948年の世界教会協議会(WWC=World Council of Churches)結成。カトリック側も第2バチカン公会議で教会合同を目標に掲げるとともに,1965年には東方正教会との相互破門(1054年以来)を解消した。
→関連項目アングリカン・チャーチキリスト教シスマ

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世界大百科事典(旧版)内の教会合同の言及

【イギリス】より

…近代資本主義のもたらした弊害に対しては,モーリスやキングズリーらがキリスト教社会主義運動を興して社会実践を推進した。20世紀に入って教会合同運動が始まると,国教会と自由教会各派間の協働態勢が強まり,合同を目指した話合いも進められるようになったが,現時点では合同はまだ実現していない。現在15の司教区,3500人の聖職者,420万の信徒を擁するカトリック教会の国教会に対する態度は冷淡であったが,第2バチカン公会議後は両教会間に友好的雰囲気が生まれ,教義面での合意を求めて積極的な話合いが進められている。…

【キリスト教】より

…かくして1054年,ささいな事件から破門状をお互いにつきつけ,両教会は以降900年ほど分離することになった。 オスマン帝国のバルカン攻略が進むなかで,ビザンティン側は西方からの援助を求め,その代償として両教会の関係修復,すなわち西方の立場からすれば教皇の権威を認めさせる教会合同の試みが行われた(フェラーラ・フィレンツェ公会議,1438‐39)。教会合同は一応成立したが,実行に移される前にコンスタンティノープルが陥落した(1453)。…

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