ドナトゥス派(読み)ドナトゥスは(英語表記)Donatists

改訂新版 世界大百科事典 「ドナトゥス派」の意味・わかりやすい解説

ドナトゥス派 (ドナトゥスは)
Donatists

4世紀に北アフリカで起こったキリスト教の分離派で,ドナトゥスDonatus(355没)が最初の指導者。カルタゴ司教メンスリウスMensuriusの死後,カエキリアヌスCaecilianusが選ばれたが,彼を叙任したフェリクスFelixはディオクレティアヌス帝の迫害のときに裏切り行為があったという理由で,ヌミディアの70人の司教・司祭が反対し,この叙任を無効としてマヨリヌスMajorinusを立てた,という二重選挙があった(312)。後者を支持する人々は,まもなく死んだマヨリヌスのあとにドナトゥスを立てるとともに,カルタゴの殉教者キプリアヌスの権威をかかげ,迫害の際に信仰告白をこばんだ聖職者の執行するサクラメントは無効であると宣言した。さらに教会と国家の癒着に反対し,非ローマ化された非定住民(キルクムケリオネスcircumcellionesと呼ばれる農民と修道士たち)を巻き込んで暴動を起こした。殉教を賛美し,終末思想にもとづいて社会変革を要求する熱狂主義は,古くから小アジアとエジプトに頻発したが(モンタヌス派やノウァティアヌス派など),ドナトゥス派もその線上にあるものとみられる。コンスタンティヌス1世はこの暴動を抑えようとして,314年にカエキリアヌスの正統性を決定し,その後弾圧を加えたが効果なく,321年に寛容令を発して和解を試みた。347年,コンスタンス帝はドナトゥス以下のおもな指導者をガリアに追放して,いったん拡大を抑えたが,361年にユリアヌス帝が帰還を許したため,以前よりも勢力をまし,ついに7世紀に至るまで北アフリカに存続した。アウグスティヌスは400年以後これと論争し,《洗礼論》その他によってサクラメントの教会法的有効性を主張するとともに,テュコニウスTyc(h)oniusの〈千年王国説〉や,教会を単に選ばれた者の集いとする閉鎖的な考えを退けて,未来的終末論を基礎とするカトリック教会の普遍性と公同性を強調した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ドナトゥス派」の解説

ドナトゥス派(ドナトゥスは)
Donatists

4~5世紀に北アフリカで盛んであったキリスト教の分派。その起源は,ディオクレティアヌス帝のとき,棄教した司教の執行したサクラメントの有効性をめぐるカルタゴ教会内の対立にあり,やがて学識と実行力を兼備したドナトゥスが厳格派を率いてこの名称が生まれた。北アフリカ一帯に広まり,反ローマ的な民族運動や農民反乱とも結合し,各地に教会を建て,カトリック教会と対立した。しかし411年カルタゴ会議で両派の大紛争ののち,ローマ帝国により異端と宣言され,激しい弾圧を受けた。

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世界大百科事典(旧版)内のドナトゥス派の言及

【再臨】より

…しかしその後の教会は制度化をつよめたために中間時的倫理の力動性を失い,その結果第1の来臨と十字架の救いから離れてひたすら再臨を求める異端を生んだといえる。2世紀半ばのモンタヌスの〈神の国〉運動,4世紀末のドナトゥス派の千年王国説,同じく12世紀末のヨアキム・デ・フローリスのそれ,宗教改革時代の再洗礼派,19世紀初めにバプティストから分かれたアドベンティストなどがそれである。第1次大戦後の内村鑑三の再臨運動は,第1と第2の来臨を分離するものではなかったが,中間的制度的な教会を批判する無教会主義を生んだ。…

※「ドナトゥス派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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