新民叢報 (しんみんそうほう)
Xīn mín cóng bào
中国,清末の保皇派の政治機関誌。半月刊。のちに不定期刊となる。日本に亡命していた梁啓超は,自分の編集した《清議報(せいぎほう)》を1901年(光緒27)12月,100期で停刊にしたが,翌年2月,それを受けついで,《新民叢報》を横浜で創刊した。その編集には,ほかに韓文挙,蔣智由,馬君武らがあたった。記事は論説,学説,時局,政治,史伝などに分類登載され,欧米の政治経済学説の紹介,変法維新の主張,西太后の牛耳る清朝政府に対する批判を主な内容としていた。なかでも梁啓超の《新民説》は,第1期(1902)から断続的ではあるが72期(1905)まで連載され,その平明流暢で情感をおびた新文体が青年知識人の熱狂的な歓迎を受け,盛況時には1万3000部も売れたといわれる。若き日の毛沢東も愛読者の一人であった。しかし05年,孫文らの中国同盟会が成立し,その機関誌《民報》が創刊されると,両者のあいだに,革命か保皇か,民主立憲か君主立憲か,排満か満漢不分か,などの論争が,二つの機関誌を通じて激しくかわされた。結局《新民叢報》は革命派におされ,しだいに青年たちのあいだに人気を失ってゆき,ついに07年7月,96期で停刊した。
執筆者:坂出 祥伸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
新民叢報
しんみんそうほう
Xin-min cong-bao; Hsin-min ts`ung-pao
中国,清末に横浜で革新派 (変法派) の在日中国人が発行した半月刊の啓蒙的雑誌。光緒 28 (1902) 年1月創刊。同 33年 10月停刊,全 96号。梁啓超を主筆とし,馮紫珊を編集兼発行人とする。同 27年に停刊した『清議報』のあとをうけて啓蒙のため革新思想を説き,欧米近代思想の紹介などにも努めた。ことに同 31年に『民報』が中国革命同盟会の機関誌として発刊されるに及んで両者の間に激しい論争が展開された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
新民叢報
しんみんそうほう
中国,清末の保皇派の政治機関誌
戊戌の政変で日本に亡命した梁啓超 (りようけいちよう) が1902年に発刊。変法維新を主張し,青年知識人たちの支持を集めた。しかし,1905年に中国同盟会が成立し,その機関誌「民報」が創刊されると,次第に革命派におされ,07年に発行を停止した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の新民叢報の言及
【中国同盟会】より
…機関誌は《民報》(1905年11月~10年2月),最初,孫文の弟子の汪兆銘,胡漢民,朱執信らが健筆をふるった。反満共和のするどい主張は,ながらく進歩的言論界を牛耳ってきた《新民叢報》に代表される改良主義の論調を圧倒した。06年7月,蘇報事件の3年の刑期をつとめあげた章炳麟が来日して《民報》の主筆となると,彼の学者革命家としての名声が革命派の声価をいっそうたかめたが,彼は孫文とあわず,そのため同盟会は内部分裂を起こすことになる。…
【民報】より
…胡漢民,張継,陶成章,章炳麟,汪精衛等が編集長をつとめ,革命理論の宣伝にきわめて重要な役割を果たした。とくに,梁啓超らの《[新民叢報]》が,列強による分割を誘発するとして革命に反対したのに対して,革命によって分割に抗するとの理論を明らかにした。孫文の三民主義とくに民生主義の理論も,《民報》誌上の《新民叢報》との論戦で,深化され,宣伝された。…
※「新民叢報」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」